
ユマティラ居留地のティピーの野営地。ブランケットをまとった二人が並んで歩く(1900年前後、Lee Moorhouse 撮影/オレゴン歴史協会所蔵・Wikimedia Commons経由/パブリックドメイン)
Vintage History 第8回:連邦ネイティブアメリカン政策と Pendleton の共生
1830年インディアン強制移住法、1838年涙の道、1887年ドーズ法、1909年 Pendleton Woolen Mills 創業、1934年インディアン再組織化法、1990年代の文化盗用論争 ── アメリカ先住民部族との200年の関係性のなかで、Pendleton ブランケットがどのような両義的な位置を占めてきたかを慎重に扱います。Vintage History 第8回。
このシリーズについて
Vintage History 第8回。今回は、とりわけ 慎重に扱うべきテーマ です。Pendleton のブランケットや49erジャケットを愛用する人にとっても、ネイティブアメリカンの歴史にとっても、その関係には両義的なところがあります。ですので本記事は、どちらか一方に断じず、複数の立場を併記する ことを、なにより大切にして書きます。華やかな柄の話をする前に、その柄が置かれてきた歴史に、まず静かに目を向けさせてください。
呼称について、先にひとつ。 人々を指す言葉としての「インディアン」は、今日では避けるべき呼称とされています。本記事では、人々には ネイティブアメリカン、または ユマティラ・チェロキー といった各部族の名前を用います。一方で「強制移住法(Indian Removal Act)」のような 法律・機関の名称は、歴史の記録そのものなので、学術的な定訳のまま 表記します。名称に残る言葉づかい自体が、この歴史の一部だからです。
1830年、世界で何が起きていたか — 強制移住法
1830年5月28日、第7代大統領 アンドリュー・ジャクソン が 「強制移住法」(Indian Removal Act)に署名します(米国議会記録、Public Law 21-148)。これにより、ミシシッピ川以東に暮らしていたネイティブアメリカンの諸部族は、現在のオクラホマ州を中心とする 指定移住地(Indian Territory)への強制移住を命じられました。
その最大の悲劇が、1838-1839年の "涙の道"(Trail of Tears)です。
- 対象となった部族:チェロキー、チョクトー、チカソー、クリーク、セミノールの 「五大文明部族」
- 移動距離:約 1,200マイル(約2,000km)
- 死者:チェロキー族だけで推定 4,000人以上(Smithsonian NMAI 公式記録、推定)
- 死因:飢餓、寒さ、病、そして暴力
この出来事は、現代では 米国史上最大級のジェノサイドの事例のひとつ として記録され、米国議会も2004年に正式な遺憾を表明しています(H.R. 4818)。ヴィンテージの話に入る前に、まずこの事実の重さを、そのまま受け止めておきたいと思います。
それは産業をどう動かしたか — 居留地体制とドーズ法
19世紀後半、フロンティアが西へ進むにつれ、ネイティブアメリカンとの武力衝突が頻発します。
- 1851年・1868年 第1回・第2回フォート・ララミー条約(部族と米国政府の境界・補償の取り決め)
- 1876年 リトルビッグホーンの戦い(カスター中佐が戦死)
- 1887年 ドーズ法(Dawes Act / General Allotment Act):部族共有地を個人ごとの地割に分割し、結果として部族の土地が大きく縮んだ(米国議会記録)
- 1890年 ウンデッド・ニーの虐殺(米軍がスー族を、女性や子供を含め推定300人殺害)
これらの政策は、ネイティブアメリカンの土地・経済・文化を、法律の手つきで、組織的に解体していく ものでした。1890年の時点で、ネイティブアメリカンの人口は推定 25万人 ── ピーク時の1割以下にまで減っていました。
連邦のネイティブアメリカン政策の200年 ── 強制移住・剥奪、権利回復への転換、そして現在進行形の議論(Kei's Vintage 独自作成の年表・断定を避け複数の立場を併記)
服はどこで生まれたか — Pendleton Woolen Mills(1909)
こうした歴史の文脈のなかで、1909年、オレゴン州ペンドルトンの町に Pendleton Woolen Mills が設立されます。創業者は Bishop family。イングランド北部の毛織産地(ブラッドフォード近郊)に生まれ、1857年に渡米した毛織職人 Thomas Kay の、孫の世代にあたります(Pendleton 公式社史・Oregon Encyclopedia)。
ペンドルトンは太平洋岸北西部の高地にあり、近隣の Umatilla(ユマティラ)族 をはじめとする部族の、重要な交易の場でした。Bishop 一族はミルを開くにあたって、はじめから部族との取引を、事業の中核に据えていた とされます。ここが、この会社の特殊で、そして難しいところです。
なぜ、よりによってこの町だったのか。ここにも地理の必然があります。
- 羊がいた:オレゴン東部の乾いた高地は牧羊に向き、原毛が地元で手に入った
- 水があった:毛織物は洗い・染め・縮絨と、とにかく大量の水を使う。川沿いであることが工場の条件だった
- 鉄道が通っていた:製品を西海岸の都市へ、そして東部へ運び出せた
- 買い手が近くにいた:交易の場として、部族の人々が実際にそこにいた
原料・水・輸送・市場が、ひとつの町でそろってしまった ── 繊維工場が立つ場所は、たいていこの4つが重なる地点 です。第1回で見た鉄道の話も、第6回で見たニューヨークの集積も、突き詰めれば同じ理屈で説明できます。地図の上で、産業は理由のある場所に立つんですね。
ユマティラ居留地内のソーンホロウ駅。倉庫と長いプラットホームの脇を鉄道が走る ── 居留地は交易網の結節点でもあった(1897〜1920年頃、Lee Moorhouse 撮影/オレゴン大学図書館所蔵・DPLA経由/パブリックドメイン)
ちなみにこの町は、1910年から続く Pendleton Round-Up(第7回で触れた地域ロデオの代表格)の開催地でもあります。ロデオとウールミルが同じ町にある ── そう並べてみると、西部という土地の成り立ちが少し立体的に見えてきます。
Pendleton とネイティブアメリカン部族の関係は、米国の他のアパレル企業にはない歴史的特殊性を持つ ── と整理できる。ただしこの関係は「共生」「文化的尊重」「経済的相互依存」と評価する立場と、「文化的搾取」「植民地的構造の継承」と批判する立場の両方が存在する。
ブランケットの "通貨化"
Pendleton のブランケットは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、部族の儀式・贈答・そして通貨の代わり として機能していました。
- 部族ごとに好まれる柄を、本人たちと相談しながらデザインした
- 結婚・葬儀・儀式での、大切な贈り物として使われた
- 部族間の交易の "通貨" としても機能した(諸説あり、Smithsonian NMAI 民族学研究)
ユマティラ居留地のティピーと馬。ガラス乾板に「Scene on the Umatilla Reservation ── Maj. Moorhouse」と直筆のキャプションが入る(1897〜1920年頃、Lee Moorhouse 撮影/オレゴン大学図書館所蔵・DPLA経由/パブリックドメイン)
布が通貨の役割を果たす、というのは私たちには馴染みが薄いのですが、条件を並べてみると腑に落ちます。持ち運べて、丈夫で長持ちし、大きさが規格化されていて、柄と品質で価値のランクが誰にでも見分けられ、そして誰もが実際に必要としている。 これは、貨幣に求められる性質をほぼ満たしています。
しかも布には、金属の貨幣に無い性質があります。使えば減っていくし、贈れば相手の生活を直接あたためる。 価値を蓄えるだけの道具ではなく、渡した瞬間に役に立つ。儀式や贈答の場で選ばれ続けたのは、この実用と象徴が同居していたからではないか、と考えられます(解釈の領域です)。
代表的なパターン名には、Chief Joseph(Nez Perce 族の伝説的な指導者の名)、Glacier National Park、Beaver State(オレゴン州の異名)、Harding(第29代大統領の名を冠した古典紋様)などがあります。名前の一つひとつに、土地と人の記憶が結びついているのが分かります。
ブランケットの「通貨化」の概念図。儀式・贈答・部族間交易の価値尺度として機能した(Kei's Vintage 独自作成/織り模様は抽象化した独自作図で、特定部族の意匠の再現ではありません)
1924年と1934年 — 政策転換
20世紀前半、米国のネイティブアメリカン政策は、少しずつ方向を変えていきます。
- 1924年 市民権法(Indian Citizenship Act):すべてのネイティブアメリカンに米国市民権を付与
- 1934年 再組織化法(Indian Reorganization Act / Wheeler-Howard Act):ドーズ法の個人地割を停止し、部族自治を一部回復
ただし、1924年に市民権が与えられたことと、実際に投票できるようになったことは別の話 でした。州によっては、その後も長く選挙人名簿への登録が拒まれ続け、制度上の障壁が解消されるまでに、さらに数十年を要した 州もあります。「法律ができた年」と「現実が変わった年」のあいだには、しばしば長い距離がある ── ここは丁寧に見ておきたいところです。
そして1934年の再組織化法は、第2回で扱ったニューディールの一部 でもありました。当時のインディアン管理局長 ジョン・コリアー が主導したこの転換は、しばしば "Indian New Deal" と呼ばれます。
第2回では、CCC や WPA といった公共事業が HERCULES や Carhartt の作業着を大量に必要とした、という話をしました。同じ政権が、同じ時期に、先住民政策の方向も切り替えていた。ニューディールという言葉の下には、作業着の話と、部族自治の話が、並んで置かれている わけです。ひとつの時代を別の角度から見ると、こんなふうに景色がつながります。
この時期、Pendleton は男性用ウールシャツ(1924年発売)、49er ジャケット(1949年)、ボードシャツ(戦後普及)と、衣料品のラインを広げていきます。部族との関係を保ちながら、同時にメインストリームのアメリカン・ファッションへも参入していった ── そういう二本立ての時期でした。
1990年代以降 — 文化盗用論争
1990年代後半から、人文学の世界やネイティブアメリカンの活動家のあいだで、「文化盗用」(cultural appropriation)をめぐる議論が活発に交わされるようになります。主な論点はこうです。
- ブランケットの紋様は、そもそも 誰のものなのか
- 部族との取り決めなしに紋様を商品化してよいのか
- "本物の" ネイティブアメリカン製品との混同をどう考えるか
Pendleton はこの問いに対して、いくつかの対応を重ねてきました。American Indian College Fund との長期提携(収益の一部を先住民教育基金へ)、部族との 公式コラボレーション(紋様使用の許諾と収益分配の透明化)、紋様の由来の公的な開示 ── などです。ただし批評家からは「それだけでは構造的な問題は解決していない」という指摘も、根強く残っています(諸説あり、いまも続いている議論です)。
Pendleton の現代的位置は「完全な共生でも、完全な搾取でもない」両義性のある状態にあると、複数の研究者が分析している(解釈は分かれます)。
Pendletonとネイティブアメリカン部族の関係は、共生とも搾取とも一元化できない両義性のなかにある(Kei's Vintage 独自作成の概念図)
いま、私たちが手に取る一着の意味
Pendleton のヴィンテージを手にすることは、1830年の強制移住法 → 居留地体制 → 1909年のPendleton創業 → ブランケットの通貨化 → 文化盗用論争 → 現代の協業プログラム という、200年の関係史に触れることでもあります。
これは、正直に言って 「カラフルな柄が綺麗だから」 だけでは済まない話だと、現代の文脈では考えるべきだと思います。ただ同時に、「Pendleton を着ること自体が文化盗用だ」と短絡する立場 にも、店主としては与しません。「両義性を理解したうえで、敬意を持って着る」 ── いまの私たちに取れる態度のひとつは、そのあたりにあるのではないか、と考えています(解釈の領域です)。答えを押し付けるつもりはありません。ただ、その一枚の背後にある歴史を、知らないままにはしたくない ── それだけは、お伝えしておきたいのです。
次回予告
第9回は 「デトロイトが沈んでも、Carhartt が沈まなかった理由」。1903年フォード創業、1955年GM世界最大企業、1980年代ラストベルト衰退、1990年代NYヒップホップでの再評価、2013年デトロイト市破産 ── 一つの都市と一つのワークウェアブランドが共に経験した1世紀を扱います。
この記事は、まだ途中です
店主がいま確認できる範囲で書いています。実物を手に取るたびに「あれ、話が違うぞ」と気づくことがあって、そのたび書き直しています。間違いは、まだ残っているはずです。
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