
冒頭画像:1942年12月5日、イングランドの飛行場。爆撃機 B-17「MAN O' WAR」の前に立つ乗員8人。毛の大きな襟の革の上着と、同じ革のズボンを着ている(米陸軍通信隊撮影/米国立公文書館 NARA 292573/パブリックドメイン)
ムートンの上着は、なぜ空で生まれた? ── 爆撃機の凍傷と B-3
羊の毛皮を内側にした「ムートン」の上着は、冬になるとよく話題にのぼります。その代表格のひとつが、アメリカ陸軍航空隊の B-3 という飛行服です。第二次大戦中、B-3 を着て高い空を飛んだ爆撃機の乗員たちは、敵の弾と同じくらい、寒さとも戦っていました。
1942年12月5日、イングランドの飛行場。アメリカの爆撃機 B-17「MAN O' WAR」の前に、乗員8人が並んでいます。8人のほとんどが、毛の大きな襟が付いた革の上着に、同じ革のズボン。袖口と裾からも、内側の白い毛がのぞいています。
羊の毛皮を、毛を内側にして仕立てた服。日本で「ムートン」と呼ばれるものです。2026-27年秋冬のメンズのコレクションでは、ミリタリーのアウターとレザーのアウターが「豊作」だったと WWDJAPAN は伝えています。その源流の一つ、アメリカ陸軍航空隊の羊の毛皮の飛行服は、なぜ生まれたのか。たどっていくと、高い空の寒さと、凍傷との戦いがありました。
「ムートン」とは、何のことなのか?
ムートン(mouton)はフランス語で羊のことです。辞書(デジタル大辞泉)は「羊の毛皮」と説明しています。国民生活センターは2024年、「ムートン」には公的な規格がないとしたうえで、日本皮革技術協会の定義として「繊細な毛をもつシープスキン又はラムスキンを原料とする毛皮」を紹介しました。英語では、毛を付けたまま鞣した羊の革を shearling(シアリング)や sheepskin と呼びます。
B-3 は、いつ、何のために作られたのか?
スミソニアン国立航空宇宙博物館は、所蔵する B-3 の記録にこう書いています。
「アメリカ陸軍航空隊は、1934年5月8日、開放式の操縦席と高い高度の飛行のために、B-3 型の飛行上着を支給した」(The United States Army Air Corps issued the Type B-3 flying coat on May 8, 1934 for open-cockpit and high altitude flying)
同じ記録によれば、B-3 は胴と袖と高い襟の内側に羊の毛(シアリング)を付け、外側の革は水やガソリン、油、汚れをはじくよう加工されていました。博物館の所蔵品は、前にジッパー、下に2つのポケット、ウエストと襟にバックル。B-3 は第二次大戦が終わるまで使われ、とくに高い空を飛ぶ爆撃機の乗員と結びついた服だ、と記録は結んでいます。
B-3 の形のイメージ。外は革、内側は羊の毛。高い毛の襟、襟とウエストの革のベルト、前のジッパー、下の2つのポケット(スミソニアン国立航空宇宙博物館の所蔵記録の説明をもとにした銅版画調の AI 生成イメージ。細部は実物と違う可能性があります)
なぜ羊の毛皮が選ばれたのかを書いた1934年の文書は、見つけられませんでした。ただ、羊の毛皮は、着るだけで暖かい服です。電気も燃料もいりません。
高い空は、どれほど寒かったのか?
1955年に米空軍がまとめた第二次大戦の医療の公式史は、ドイツへの爆撃が増えたころの空を、こう書いています。
「外の気温が華氏マイナス50度から60度ほどになるなか、爆撃機と護衛の戦闘機の機内は華氏0度からマイナス10度、風にさらされる持ち場ではさらに低くなった」(with ambient temperatures around −50° or −60° F., the interior temperature of bombing planes and fighter escort reached 0 to −10° F. or even lower in exposed crew positions)
摂氏に直すと、外は −46〜−51度、機内でも −18〜−23度ほどです。その機内を、風が吹き抜けていました。B-17 の胴の左右には、機関銃を撃つための窓が開いていました。腰の位置で銃を構える「腰部銃手」の持ち場です。
1943年3月17日、イングランド。B-17 の胴の中で、機関銃を構える2人の腰部銃手。右の銃は胴の窓に据えてある(米陸軍通信隊撮影/米国立公文書館 NARA 292574/パブリックドメイン)
公式史によれば、敵の戦闘機に不意を突かれないよう、腰の窓と無線室の天窓は開けたままでした。そこから吹き込む風が、1943年の凍傷の39.1%の原因だったといいます。2人の腰部銃手は、それぞれ凍傷全体のおよそ25%を負いました。
凍傷は、なぜ敵の弾より多かったのか?
公式史の数字は、こうです。1942年11月から1943年12月31日までの14か月に、イギリスを拠点にした第8空軍では、高い空での任務中の凍傷と銃創で、2,841人が飛行任務から外されました。そのうち凍傷が1,634人、57.5%。敵の弾による負傷より、凍傷のほうが多かったのです。
第8空軍の凍傷と、敵の弾による負傷。1942年11月〜1943年12月は、飛行任務を外れた人のうち凍傷1,634人・敵の弾による負傷1,207人。1944年は、敵の弾で負傷した人3,158人・凍傷を負った人1,685人(米空軍の医療の公式史 1955年 p.644 の数字から Kei's Vintage 作図。1,207人は2,841人から凍傷の人数を引いた数)
ただし、ここで数えているのは「飛行任務から外すほど重い凍傷」と「銃創で任務を外れた人」です。戦死や行方不明は入っていません。凍傷で亡くなった人のほうが多かった、という意味ではありません。
公式史は、凍傷のおもな原因を「電熱服の故障、着方のまちがい、体に合わない飛行服、飛行服の誤った使い方、詰まった機関銃を直すために手袋を外すこと」とまとめています。乗員への教えも足りませんでした。ある調査では、戦地に着く前の乗員839人のうち706人、83%が、高い空での凍傷の防ぎ方と手当てを習っていなかったといいます。
羊の毛皮だけでは、なぜ足りなかったのか?
羊の毛皮は暖かい一方で、かさばります。公式史は、毛皮・電熱・羽毛のどの服も、暖かくしようとするとかさばり、いちばんかさばるものは狭い持ち場では使えなかった、と書いています。電気で温める飛行服も使われました。B-17 では、尾部の銃手と、機体の腹の下の球形の銃座の銃手が、決まって電熱服を着ていました。
ところが初めの電熱服(F-1)は、手袋や長靴まで1本の回路でつながっていて、どこか1か所が切れると服全体が温まらなくなりました。公式史は、乗員の苦い冗談を書き留めています。「右手が凍ったのはなぜかって? 左の長靴が焼き切れたからさ」。1943年2月に凍傷が急に増えたときには、電熱の長靴と手袋が足りなかったことも原因の一つでした。
戦時情報局のポスター。「電熱の飛行服を、笑顔で縫う」と書かれ、ミシンで布を縫う女性たちが写る(米国戦時情報局 OWI/米国立公文書館 NARA 515388/パブリックドメイン)
1944年、何が変わったのか?
1943年10月、改良した電熱服 F-2 の生産が始まります。回路が並列になり、手袋や長靴の1か所が切れても、服全体は温まりつづけるようになりました。機体の側でも、1944年3月の半ばまでに、ほとんどの機で腰の窓と無線室が閉じられます。
数字ははっきり変わりました。第8空軍で1944年に敵の弾で負傷した人は3,158人、凍傷は1,685人。凍傷と負傷の数が逆転しました。爆撃機 B-24 の部隊を束ねた第2航空師団の部内報『Target: Victory』(1944年12月30日号)は、第8空軍のうちこの師団の乗員だけの数で、凍傷が1943年12月の256件から、1944年12月には23件に減ったと伝え、改良した電熱服と腰の窓を閉じたことを挙げています。
そのあいだも、B-3 は乗員の上着でありつづけました。凍傷を減らしたのは、羊の毛皮の厚着だけではなく、電気で温める服と、窓を閉じた機体でした。いま街で見かけるムートンの上着の中にも、B-3 の高い毛の襟やウエストのベルトの形を残したものがあります。
参考文献
- スミソニアン国立航空宇宙博物館「Coat, Flying, Winter, Type B-3, United States Army Air Forces」(A19640641001)(airandspace.si.edu)
- Mae Mills Link & Hubert A. Coleman『Medical Support of the Army Air Forces in World War II』(米空軍 軍医総監室、1955年)pp.251–252・276・636–644(archive.org)
- Herman Madnick『Electrically Heated Handwear』(米陸軍ネイティック研究所、1967年、DTIC AD0656742)(archive.org)
- 第2航空師団『Target: Victory』1944年12月30日号 p.3(b24.net)
- 国民生活センター「毛皮ではない『ムートン』が使用されていたベッドパッド」(2024年12月11日)(kokusen.go.jp)
- WWDJAPAN「『タイドアップシャツ』や『ミリタリーアウター』が豊作 2026-27年秋冬メンズコレクションで見えたキーアイテム」(2026年3月6日)
この記事は、まだ途中です
店主がいま確認できる範囲で書いています。陸軍が1934年になぜ羊の毛皮を選んだのか、B-3 がいつごろ別の上着に置き換わっていったのかは、確かな資料をまだ見つけられていません。分かり次第、この記事に足していきます。間違いは、まだ残っているはずです。
下のコメント欄には写真も貼れます。訂正でも、質問でも、「祖父が乗員だった」という話でも。
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