
冒頭画像:1974年2月、コロラド州(記録の場所はベイル)。スキー板を担いでリフトへ向かう2人。左の人の黄色い上着は、横の縫い目で区切られてふくらんだキルトの上着(Ron Hoffman 撮影・米国環境保護庁 DOCUMERICA/米国国立公文書館 NARA 554259/パブリックドメイン)
ダウンジャケットは、どうやって冬の街着になったのか? ── 軍の放出品の寝袋から、1970年代のスキー場と街へ
冬になると、リユース店でもダウンジャケットがよく売れます。山や極地のための服だったダウンが、街の冬着になったのは、いつ、どんな道筋だったのか。戦後の軍の放出品の羽毛の寝袋から、自分で縫うダウンベストのキット、1970年代のスキー場と街まで、当時の雑誌と博物館の記録でたどります。
2026年4月、WWDJAPAN は、全国に800店以上を持つリユースショップ「セカンドストリート」で、この冬(2025年12月〜26年2月)に売れたブランドを並べました。メンズのデザイナーズでは、モンクレールが前の回の4位から3位に上がっています。記事は、厳しい冬に暖かさを求める客のダウンの取引が活発になった、という趣旨の分析を添えていました。
冬になれば、ダウンジャケットを着るのは当たり前のことです。でも、羽毛を詰めた上着は、もともと山や極地のための服でした。それが街の冬着になったのは、いつ、どんな道筋だったのでしょうか。
ダウンの上着は、どこから来たのか?
ダウンの上着そのものの始まりは、創業者伝 第12回 エディ・バウアー に書きました。1936年にシアトルのエディー・バウアーが売り出したキルトの「スカイライナー」、1940年に取った意匠特許、そして第二次大戦の米軍の羽毛の飛行服 B-9 パーカ。ここから先は、その後の話です。
戦後、軍の放出品の羽毛の寝袋が山の人の手に渡り、帰還兵や山好きが山の道具の店を開きました。1960年代末から70年代には、自分で縫うダウンベストのキットが広まり、スキー場でダウンを着る人が増えます。1970年代半ばには、スキーの雑誌が「どこでも見かける」と書くほど、ダウンは街にも出ていきました。
戦後、羽毛は誰の手に渡ったのか?
戦争が終わって民間に出回ったのは、上着より先に寝袋でした。
1948年7月、一般誌『Popular Science』に、軍の放出品を扱う通販業者が、羽毛入りの軍用型の寝袋を売る広告を出しています。
シアトルの山の道具の店 REI は、1988年の社史でこの時代をこう振り返りました。
「40年代と50年代は、新しい放出品の羽毛の寝袋、アルミの背負子、炊事道具がそろった、輝かしい年月だった」(The '40s and '50s were glorious years with new surplus down sleeping bags, aluminum backpacks, cooking kits…)
ただし、ここで言えるのは寝袋までです。朝鮮戦争(1950〜53年)のころの記録にも、羽毛入りの山岳用の寝袋は出てきますが、米軍の兵士にダウンの上着が配られたという資料は、今回は見つかりませんでした。朝鮮戦争の米軍のおもな防寒着だった M-1951 のパーカやフィールドジャケットは、ダウンの服ではありません。
山の店は、どうやってダウンを広めたのか?
戦争から帰った山好きたちが、コロラドとカリフォルニアで山の道具の店を開きます。
- コロラド州ボルダーのホルバー(1940年代後半):1973年の同社のカタログによれば、最初はロイとアリス・ホルバーの家の地下室で、靴や寝袋を売っていました
- ジェリー(1940年代後半):第10山岳師団にいたジェリー・カニンガムが始めた会社(はじめは通信販売)
- シエラデザインズ(1965年、カリフォルニア州バークレーの近く)
- ザ・ノース・フェイス(1966年にサンフランシスコで山の道具の店として開業し、1968年から自社で作る)
そこに、もう一つの道ができました。自分で縫うことです。1966年、コロラドでフロストライン・キッツが、材料をそろえて自分で縫うキットを売り始めます。1976年の本では、ダウンベストのキットが13ドル95セント。1977年のフロストラインの広告は「既製品のダウンベストのおよそ半額」とうたっていました。
「8社のどのメーカーでも、初めての人にいちばん人気のキットはダウンベストだ」(The most popular beginner's kit among all eight manufacturers is the down vest.)── 『Backpacker』1976年10月号
コロラド州立大学のアヴェニール博物館には、1970年に買われたフロストラインの赤と緑のダウンベストと、開けていないキットが残っています。ダウンベストは、山の人でなくても手の届く、ダウンの入口になったのです。
海の向こうのダウンも、アメリカに入ってきます。フランスのモンクレール(1952年創業)は、1973年1月にアメリカで商標を出願しました(1973年9月25日の米国の商標の公報)。
スキー場から街へ出たのは、いつか?
1974年2月、コロラド州。スキーの合間に、店の前の柵で休む3人。右の人は横の縫い目で区切られたキルトの上着をベルトで締め、左の人はデニムのオーバーオール(Ron Hoffman 撮影・米国環境保護庁 DOCUMERICA/米国国立公文書館 NARA 554228/パブリックドメイン)
1970年代前半、ダウンはまずスキー場の服になります。1973年9月、スキー雑誌『Ski』は、東部の寒さにいちばん実用的なのはダウンパーカだとし、こう続けました。
「ダウンにも、ダウンでないものと同じだけ、いやそれ以上のファッション性がある」(there is just as much fashion styling, if not a bit more, in down as there is in the non-down area.)
上の写真は、その翌年、1974年の冬のコロラドのスキー場です。米国環境保護庁が国じゅうの暮らしと環境を記録した写真の事業「DOCUMERICA」で撮られました。スキーの合間の若い人たちの上着に、横の縫い目でふくらみを区切ったキルトが見えます(写真の記録には、中身がダウンかどうかまでは書かれていません)。
1974年2月、コロラド州。スキーのあと、村の道を歩いて帰る2人。左の人はジグザグの縫い目のキルトの上着、右の人は緑のナイロンの上着。2人ともジーンズとブーツ(Ron Hoffman 撮影・米国環境保護庁 DOCUMERICA/米国国立公文書館 NARA 554272/パブリックドメイン)
そして1976年11月、同じ『Ski』誌は、もう「スキー場の服」とは書いていません。
「この冬は、おなじみの縫い通しのふくらんだダウンのパーカやコートを、どこでも見かける。とくにスキー場で」(This season you'll see the familiar quilt-through puffy down parka and coat being worn everywhere… and particularly on the ski slopes.)
同じ1976年の9月、経済誌『Forbes』は、リーバイ・ストラウスが10月からデニムのダウンベストとジャケットを試験販売すると伝えました。歴史家レイチェル・S・グロスの研究によれば、1978年には、シエラデザインズが「町でも田舎でも着られる」とうたった上着を出しています。山の店が、はっきり街の人に向けた服を作り始めたのです。
山の人は、どう見ていたのか?
ダウンが流行になると、山の人の中には戸惑う声も出ました。1979年8月の『Backpacker』誌はこう書いています。
「どこのマーサおばさんもエドおじさんも、バックパッカーのように見せたがった。底の厚さ3インチの登山靴に、ふくらんだダウンベスト」(Every Aunt Martha and Uncle Ed wanted to look like a backpacker— sporting three-inch soled mountaineering boots and puffed-out down vests.)
イェール大学出版局から出た歴史家レイチェル・S・グロスの研究(2024年)は、1970年代のアウトドアのカタログには、10年前なら山とは関係なさそうに見えた品が並んでいた、と書いています。会社の経営者たちを悩ませたのは「アウトドアの服が売れるのは、機能のためか、ファッションのためか」という問いでした。
縫い目は、なぜ横や菱形なのか?
ダウンジャケットのあの縫い目には、理由があります。羽毛は、袋に入れただけだと動きや重さで下や端に寄ってしまいます。そこで表と裏の生地を縫い合わせて小部屋に分け、羽毛が片寄らないようにしているのです。
縫い方には大きく2つあります。
- 縫い通し:表と裏の生地を直接縫い合わせる。軽くて安く作れるが、縫い目の線には羽毛が無いので、そこが冷えやすい
- 箱型(ボックス・バッフル):表と裏のあいだに布の壁を縫い込み、箱のような部屋にする。縫い目の冷えが少なく羽毛がよくふくらむが、重くなり手間もかかる
1976年の『Ski』誌は、街で見かけるダウンを「縫い通しのふくらんだパーカ」と書いています。菱形と横線のどちらがよいのかを機能で比べた当時の資料は、今回は見つかりませんでした。
羽毛のふくらむ力を表す「フィルパワー」という言葉も、1980年代初めのアウトドアの手引き書にはもう出てきます。1オンス(いまの米国の規格では30グラム)の羽毛が何立方インチにふくらむかを測る数字で、大きいほど少ない量で暖かい、という目安です。
いま、私たちが手に取る一着の意味
軍の放出品の羽毛の寝袋、家の地下室から始まった山の店、自分で縫うダウンベストのキット、スキー場、そして「どこでも見かける」街へ。ダウンジャケットは、山の人の道具が、少しずつふつうの人の冬着になっていった服です。
リユース店でダウンジャケットを選ぶとき、縫い目の形を見てみてください。縫い通しか、箱型か。その縫い目は、羽毛を片寄らせないための工夫で、山の店の人たちが長いあいだ工夫してきたものです。
参考文献
- WWDJAPAN「ダウンはやっぱり『モンクレール』と『ザ・ノース・フェイス』 リユースショップ『セカンドストリート』で売れたブランドは?(2025年12月〜26年2月)」(2026年4月3日)
- 『Popular Science』1948年7月 p.9、『Forbes』1976年9月1日号 p.40(Internet Archive の全文で照合)
- 『Ski』1973年9月 p.113・1976年11月 p.148、『Backpacker』1979年8月 p.50(誌面はページの画像で照合)
- 『Backpacker』1976年10月(同じ文を1977年の単行本の本文で照合)、『18: The Teenage Catalog』(1976年)、『Popular Mechanics』1977年(フロストラインの広告)
- ホルバーの1973年のカタログ、Harvey Manning『Backpacking, One Step at a Time』(1980年)
- 米国特許商標庁の商標の公報(1973年9月25日・TM 245、モンクレールの出願)
- 『REI: 50 Years of Climbing Together』(1988年)
- コロラド州立大学 アヴェニール博物館「A DIY Sewing Kit for the Outdoor Enthusiast」(2021年)
- Rachel S. Gross「Fashion or Function?」(Yale University Press、2024年)
- ユタ州立大学 Gerry and Ann Cunningham papers
- FIT 美術館「Clarifying Facts on Parkas and Puffers」(2017年)
この記事は、まだ途中です
店主がいま確認できる範囲で書いています。当時の雑誌の記事の多くは、まだ誌面の一部しか読めていません。日本でダウンジャケットがいつごろ街で着られ始めたか、菱形のキルトがなぜ生まれたかも、確かな資料を探しているところです。分かり次第、この記事に足していきます。間違いは、まだ残っているはずです。
下のコメント欄には写真も貼れます。訂正でも、質問でも、「昔こんなダウンを着ていた」という思い出話でも。
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