ヘリンボーンは、なぜ米軍の作業服になったのか? ── 1941年、陸軍が「きしむ青いデニム」をやめた理由

冒頭画像:1942年6月、ケンタッキー州フォートノックス。ハーフトラックの前で訓練中の兵士の上着は、袖口のカフスから最初の型の杉綾(HBT)とみられる(Alfred T. Palmer 撮影・米国戦時情報局 OWI/米国議会図書館 fsac.1a35212/パブリックドメイン)

ヘリンボーンは、なぜ米軍の作業服になったのか? ── 1941年、陸軍が「きしむ青いデニム」をやめた理由

2026年秋冬のメンズの注目素材に、ヘリンボーン(杉綾)が挙がっています。古着屋で「HBT」と呼ばれる米軍の杉綾の作業服は、1941年に、それまでの青いデニムの作業服に取って代わりました。陸軍はなぜデニムをやめたのか。米陸軍需品科が1946年にまとめた記録には、意外な理由が書かれていました。

By Kei's Vintage

1941年5月29日、アメリカ陸軍省の広報局は、兵士の作業服を替えると発表しました。

「おなじみの、きしむ青いデニムの作業服は、新しいオリーブドラブのヘリンボーンの服に替わる」(the familiar, creaky, blue denim fatigue uniforms would be replaced with the new olive drab herringbone outfit)

青いデニムの作業服が、オリーブドラブの杉綾(ヘリンボーン・ツイル、略して HBT)の服に替わる。古着屋でいう「HBT」の始まりです。

ヘリンボーンは、いまふたたび注目されています。FASHIONSNAP は2026年2月、2026年秋冬のメンズのランウェイで「太畝コーデュロイ」「レザー」と並ぶ今季の素材にヘリンボーンを挙げました(記事は生地の種類までは書いておらず、織り柄としてのヘリンボーンの話です)。その杉綾が、なぜ80年あまり前に、アメリカ陸軍の作業服になったのか。米陸軍需品科が1946年にまとめた記録『Clothing the Soldier of World War II』(第二次大戦の兵士の服装)を読むと、答えはデニムの弱さではありませんでした。

陸軍は、なぜデニムをやめたのか?

陸軍の需品総監部の文書(1937年4月27日)は、理由をこう並べています。

  • 陸軍の服装の委員会が、教練にも使える一つなぎの服に関心を持っていた
  • 作業服を野外の訓練に使う部隊が多く、それを勧めれば、兵士一人あたりの服の費用を減らせる
  • 開発中の防護服も一つなぎの形に向かっていて、同じ服で両方をまかなえるかもしれない

記録は、これを「青いデニムをやめて、カーキかオリーブドラブの生地にする理由」としてまとめています。つまり陸軍が欲しかったのは、教練にも訓練にも防護にも使える色と形の服でした。青いデニムでは、その色にならなかったのです。

きっかけは、戦車でした。1936年、歩兵の委員会が、陸軍の一つなぎのデニムの作業服と、陸軍航空隊の整備士の一つなぎの服を比べ、戦車や車両の仕事には整備士の服のほうが向いていると結論します。歩兵総監は「航空隊の整備士の服と同じ形と色にしてほしい」と勧め、州兵局も教練用にオリーブドラブかカーキの一つなぎを求めていました。

1940年の陸軍の青いデニムの作業服(米陸軍需品科『Clothing the Soldier of World War II』1946年 p.65 の図版「Blue Denim Work Clothing, 1940.」/パブリックドメイン)1940年の陸軍の青いデニムの作業服(米陸軍需品科『Clothing the Soldier of World War II』1946年 p.65 の図版「Blue Denim Work Clothing, 1940.」/パブリックドメイン)

選ばれたのは、外套の裏地の生地だった

では、生地は何にするか。1937年3月、フィラデルフィアの需品の補給廠は、外套の裏地に使っていた綿の生地を、杉綾に織ったものを勧めます。使う部隊が望む色で、作業に耐える質の生地を、手ごろな値段で ── という条件で2年かけて調べた答えでした。ただ、デニムより値段が上がるので、決めるのは陸軍省に回されました。

1938年春、新しい形と杉綾の生地が承認されます(陸軍の副官部の文書は1938年4月29日付)。秋には新しい一つなぎの作業服の生産が始まりましたが、古いデニムの服の在庫を使い切ってから配る方針でした。上下に分かれた作業服まで含めてデニムをやめると陸軍省が発表したのが、冒頭の1941年5月です。方針そのものは、陸軍省通達第96号(1941年5月12日)に書かれ、6月18日の第116号で改められました。

もう一つ、デニムの服の形が変わった話もあります。1939年春、民間保全部隊(CCC)の若者に配ったデニムのかぶり型の上着の、半分から4分の3が前立てから裂けていた、という報告がありました。陸軍はこれを受けて、1940年に前開きの上着の形にしています。これはデニムの生地が弱いという話ではなく、かぶり型という形の問題として記録されています。

1942年の上下に分かれた杉綾の作業服(米陸軍需品科『Clothing the Soldier of World War II』1946年 p.66 の図版「Two-Piece Herringbone-Twill Work Suit, 1942.」/パブリックドメイン)1942年の上下に分かれた杉綾の作業服(米陸軍需品科『Clothing the Soldier of World War II』1946年 p.66 の図版「Two-Piece Herringbone-Twill Work Suit, 1942.」/パブリックドメイン)

杉綾(ヘリンボーン)は、どんな織り方なのか?

デニムは綾織りの斜めの線が一方向に続く。杉綾(ヘリンボーン)は、線の向きを一定の幅ごとに反転させる(Kei's Vintage 作図の模式図)デニムは綾織りの斜めの線が一方向に続く。杉綾(ヘリンボーン)は、線の向きを一定の幅ごとに反転させる(Kei's Vintage 作図の模式図)

デニムは「綾織り」です。糸の交わる点が少しずつずれて、生地の表に斜めの線(綾目)が一方向に続きます。

杉綾は、その綾目の向きを、一定の幅ごとに右上がり・左上がりと反転させた織り方です。平凡社の世界大百科事典は、ヘリンボーンを「2/2の綾を山型(またはV型)に連続的に組み合わせたもの」と説明し、ニシンの骨(herringbone)を並べたような柄からこう呼ばれる、と書いています。日本では杉の葉に見立てて「杉綾」。近くで見ると V 字、遠くから見ると縦の縞に見えます。古着の HBT の上着を遠目に見ると、細い縦縞のように見えるのはそのためです。

1942年の秋、HBT の形はなぜ変わったのか?

最初の型の HBT の上着は、胸ポケットに飾りのプリーツが入り、袖口はシャツのようなカフス、裾にはベルトのようなバンドが付いていました。冒頭の1942年6月の写真の兵士の上着も、袖口がシャツのようなカフスで、この型とみられます(胸ポケットと裾は装具に隠れています)。裾のバンドは、上の1942年の図版でよく見えます。

ところが1942年の秋、陸軍は形を簡単にします。理由は、作業着の工場でも大量に作れるようにするためでした。記録によれば、それまでの杉綾の作業服は細部が凝っていて、ふつうの作業着の工場ではしない工程が要りました。1942年10月27日の委員会で、胸ポケットは飾りのプリーツをやめてマチの付いた大きなポケットに、袖口は折り返しに、裾のバンドはやめて少し長くし、ズボンには脚の横に大きなポケットを付けることになります。年末には、この簡単な形がすべての支給に認められました。古着屋で「HBT の2型」と呼ばれる形です。

1943年2月にも、入札する工場を増やすために作り方がさらに変わりました。機甲部隊からは、金属のボタンで火傷をするという苦情が来て、手首と首の後ろに金属が当たらないようにしています。

大きなポケットには、戦地からの文句も残っています。1945年4月、南西太平洋の軍曹の報告です。

「ポケットから手榴弾を出すのに、ほとんどズボンを脱がなきゃならない」(You practically have to take your trousers off to get a hand grenade out of the pocket.)

作業服は、戦場の服になった

もとは作業服として作られた杉綾の服は、太平洋の熱帯の戦線では、一年じゅうの戦闘服になりました(米陸軍の公式史)。ただし、いいことばかりではありません。同じ公式史は、杉綾の生地は濡れるとかなり重くなり、湿った熱帯では兵士の荷を重くした、とも書いています。試験では、ポプリンなどの生地のほうが涼しく、乾くのも速かったそうです。

それでも、作業服と戦闘服を兼ねた杉綾の服は、戦争のあいだ大量に作られ、着られました。デニムをやめた理由が、生地の強さではなく「教練にも訓練にも防護にも使える一つの服に、色と形をそろえたい」だったと知ってから古着の HBT を見ると、あの緑がかった色と縦縞のような生地の見え方が、少し違って見えてきます。

参考文献

この記事は、まだ途中です

店主がいま確認できる範囲で書いています。最初の型の HBT の上着の仕様書の日付や、戦後に放出された HBT が民間でどう着られたかは、確かな資料をまだ見つけられていません。分かり次第、この記事に足していきます。間違いは、まだ残っているはずです。

下のコメント欄には写真も貼れます。訂正でも、質問でも、「うちにも HBT の上着がある」という話でも。

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