「ホワイトカラー」の白い襟は、なぜ取り外せたのか? ── 「襟の町」トロイとアローカラーの広告

冒頭画像:1910年ごろ、ニューヨーク州トロイの川沿いの工場。右端の建物の壁に「CLUETT ARROW & CROWN / COLLARS & CUFFS」の看板が読める(トロイの町の宣伝の冊子『A live city in the Hudson Valley』1910年より/パブリックドメイン)

「ホワイトカラー」の白い襟は、なぜ取り外せたのか? ── 「襟の町」トロイとアローカラーの広告

2026年秋冬のメンズで、襟と袖だけ色を切り替えたクレリックシャツが目立ったそうです。100年あまり前のアメリカでは、白い襟と袖口は、そもそもシャツから外れる別の部品でした。その襟を何百万ダースも作っていたのが、ニューヨーク州の「襟の町」トロイです。

By Kei's Vintage

2026年秋冬のメンズのランウェイで目立ったものとして、FASHIONSNAP は「ケープ」「ダッフル」「カーゴパンツ」「クレリックシャツ」「ルーズソックス」の5つを挙げました。クレリックシャツは「襟と袖をボディとは違う色や柄で切り替えた」シャツです。

襟と袖口だけが別の色。その見え方を、100年あまり前のアメリカの男性は毎朝、別の形で手にしていました。白い襟と袖口が、シャツから外れる別の部品だったのです。洗って糊で固めた白い襟を、シャツに着けて着る。その襟の一大産地が、ニューヨーク州のトロイでした。

襟は、なぜシャツから外れたのか?

トロイの郷土史家 A・J・ワイズが1886年に書いた町の歴史は、襟の産業の始まりをこう書いています。

「57年前、トロイのいちばんの産業は、ある乾物商のささやかな商いから始まった」(Fifty-seven years ago, Troy's leading industry had its beginning in a small undertaking of a dry-goods merchant.)

1829年、メソジストの牧師をやめたエベニーザー・ブラウンが、トロイのリバー通りに小さな乾物の店を開きます。ブラウンは町の女性たちに襟を縫わせ、店の品物で支払いました。ワイズが話を聞いた古老の一人は、こう語っています。

「襟を作ったのは姉たちで、当時の習いどおり、洗って、糊を付けて、アイロンをかけ、支払いは品物で受け取った」(My sisters, however, made the collars, and, as it was then the custom, washed, starched, and ironed them, and received their pay in goods.)

襟は縫って終わりではなく、洗って糊で固めた状態で売る品でした。このころの襟は首のまわりでテープの紐を結んで留めるもので、「ストリング・カラー(紐の襟)」と呼ばれ、1ダース2ドル、1本なら25セント。同じ本によると、シャツの胸元を覆う布(胸当て)も、当時はシャツと別に着けるのがふつうでした。

1904年の新聞に載った「男性の新しい襟」。立ち襟と折り返しの襟の2つの形(The Tacoma Times 1904年3月31日/パブリックドメイン)1904年の新聞に載った「男性の新しい襟」。立ち襟と折り返しの襟の2つの形(The Tacoma Times 1904年3月31日/パブリックドメイン)

「夫の襟を切り離した主婦」の話は本当か?

トロイの襟には、よく知られた始まりの話があります。1820年代、ハンナ・モンタギューという女性が、汚れた襟だけを洗うために夫のシャツの襟を切り離した ── というものです。

ただ、この話は言い伝えとして扱うのが安全です。年は1820年・1825年・1827年と資料ごとに違います。1886年のワイズの町の歴史に、ハンナの名は出てきません。モンタギューの名で出てくるのは、1834年にトロイで初めて麻の襟と胸当てを専門の商いとして作り始めたオーランド・モンタギュー(ハンナの夫とされる人)です。さらに、トロイの郷土史のブログが引く1912年の百科事典『The Americana』は、襟を切り離した女性について「その名が失われたのは、歴史家から見て残念なことだ」と書いています。

確かな記録から言えるのは、襟と胸当てがシャツとは別の部品として作られ、洗って糊付けされて売られていたこと。そして、その仕事の中心にいたのが、トロイの女性たちだったことです。

トロイは、なぜ「襟の町」になったのか?

ワイズによると、1845年ごろにはカフス(袖口)も作られるようになります。1852年にミシンが入ると、手縫いで1日50セントだった腕のいい縫い子の稼ぎは、2ドルから2ドル50セントに。1855年にはミシンが蒸気の力で動くようになりました。

1886年、ワイズはこう書いています。

「いまや7,000人を下らない少女と女性が、仕事に合わせた機械の助けを得て、およそ400万ダースの襟とカフスを作り、年に125万ドルを超える額を稼いでいる」(Now not less than seven thousand girls and women, aided by adapted machinery, earn annually more than a million and a quarter dollars by doing the work required of them in the manufacture of about four million dozens of collars and cuffs.)

400万ダースは、4,800万本です。冒頭の写真は1910年、トロイの町の宣伝の冊子に載ったもので、冊子は写真に「1マイル近く続く襟の工場」と説明を付けています。

1900年ごろの店頭用の厚紙。手の形に切り抜かれ、袖口の帯に「Cluett, Peabody & Co.」、下に「COLLAR MAKERS(襟の製造元)」とある(フィラデルフィア図書館会社所蔵/パブリックドメイン)1900年ごろの店頭用の厚紙。手の形に切り抜かれ、袖口の帯に「Cluett, Peabody & Co.」、下に「COLLAR MAKERS(襟の製造元)」とある(フィラデルフィア図書館会社所蔵/パブリックドメイン)

洗濯場の女性たちは、何を求めたのか?

糊の利いた白い襟は、洗濯場の熱の中で仕上げられました。1911年にアメリカ上院が出した働く女性の調査報告は、1869年の労働新聞の言葉を引いています。

「洗い桶の上に、アイロン台の上に立ちつづける。両側には炉があり、温度計は平均100度(華氏・摂氏で38度ほど)。それで賃金は週に平均2〜3ドル」(to stand over the washtub, over the ironing table, with furnaces on either side, the thermometer averaging 100 degrees, for wages averaging from $2 to $3 a week)

トロイの襟の洗濯女工たちは組合を作りました(1864年とされます)。同じ報告によれば、組合の力で賃金は週8〜14ドルに上がり、1866年には賃下げに反対してストライキ中だったトロイの鉄の鋳物工に1,000ドルを寄付しています。1868年、組合の長ケイト・ミュラニーは全国労働組合(National Labor Union)の女性のオルグ(組合づくりの担当)に任じられました。報告はこれを「アメリカの労働の歴史で、この種の任命として初めてのものらしい」と書いています。

ただ、1869年5月、約400人の組合がさらに賃上げを求めると、7,000人が集会に集まったものの、雇い主側は組合をつぶしました。女性たちはそのあと、ミュラニーのもとで自分たちの襟とカフスの工場を協同組合として作っています。

アローカラーの広告は、何を売ったのか?

トロイの襟の会社の中で、いちばん大きくなったのがクルエット・ピーボディ社です。1851年にリバー通りで始まった襟の店が、共同経営者を替えながら育ち、1899年にこの社名になりました(1901年とする資料もあります)。看板の商標が「アロー(矢)」です。

アローの襟とシャツの広告。J・C・ライエンデッカー画(Cosmopolitan 1913年7月号/パブリックドメイン)アローの襟とシャツの広告。J・C・ライエンデッカー画(Cosmopolitan 1913年7月号/パブリックドメイン)

アローの名を有名にしたのが、画家 J・C・ライエンデッカーの描いた男性の広告です。あごの線のはっきりした、すました顔の男性は「アローカラー・マン」と呼ばれ、広告は1900年代の終わりから1930年ごろまで続きました(始まりは1905年とも1907年とも、終わりは1930年とも1931年とも言われます)。

上の1913年の広告には、新しい襟の説明に「上着の襟の上に白を少しのぞかせる」とあり、値段は「2つで25セント」。夏のシャツには、裏返して使える「ヘンリー」のカフスが付き、これで「シャツが倍もつ」と書いています。部品を替えて本体を長く使う考え方が、ここにも見えます。

映画俳優フランシス・X・ブッシュマンがアローの新しい襟「コンター」を着けた広告。「1本15セント・2本で30セント」(Motion Picture Magazine 1917年7月号。画はレオ・シールキ・ジュニア/パブリックドメイン)映画俳優フランシス・X・ブッシュマンがアローの新しい襟「コンター」を着けた広告。「1本15セント・2本で30セント」(Motion Picture Magazine 1917年7月号。画はレオ・シールキ・ジュニア/パブリックドメイン)

アローは映画スターも広告に使いました。1917年の映画雑誌の広告では、俳優のフランシス・X・ブッシュマンが新しい形の襟を着けています。襟は形ごとに名前が付いていて、1920年の広告は「マーシー」という新しい襟を売っています。

アローの新しい襟「マーシー」の広告(The Saturday Evening Post 1920年/パブリックドメイン)アローの新しい襟「マーシー」の広告(The Saturday Evening Post 1920年/パブリックドメイン)

アローカラー・マンには女性からファンレターが山ほど届いた、という話もよく語られます。ただ、1986年にアローカラー・マンの展覧会を手がけた服飾史の学芸員リチャード・マーティンは、1996年の論文で「言われている何千通もの手紙を見たと証言できる同時代の人はいない」と書いています。

アローの礼服用の襟とシャツの広告。白い蝶ネクタイの礼装の男性と、ショールをまとった女性(Harvard Lampoon 1927年2月9日号。J・C・ライエンデッカー画/パブリックドメイン)アローの礼服用の襟とシャツの広告。白い蝶ネクタイの礼装の男性と、ショールをまとった女性(Harvard Lampoon 1927年2月9日号。J・C・ライエンデッカー画/パブリックドメイン)

「ホワイトカラー」は、いつからの言葉なのか?

白い襟は、事務所で働く人のしるしになりました。作家アプトン・シンクレアは1919年の『The Brass Check』で、事務員たちをこう書いています。

「白い襟を着けることを許され、上司と同じ事務所で働くので、自分を資本家の側の一員だと思っている」(because they are allowed to wear a white collar and to work in the office with the boss, regard themselves as members of the capitalist class)

「ホワイトカラー」という言葉はシンクレアが作った、と言われることがありますが、言葉の歴史を調べた記事(Slate、2012年)は、1910年のネブラスカの新聞に「安いホワイトカラーの仕事(white-collar job)」という言い方がすでにあると紹介しています。同じ記事によれば、手で働く仕事を「ブルーカラー」と呼んだ例は1924年のアイオワの新聞です。

「ハイカラ」も、襟の言葉だった

日本にも、襟から生まれた言葉があります。「ハイカラ」です。日本国語大辞典は、語源を英語の high collar(高い襟)とし、もとは「たけの高い襟」、そこから、洋行帰りの人がその襟を着けていたことで「西洋風で目新しいこと」を指すようになった、と説明しています。西洋風の意味での用例として辞典が挙げるいちばん古いものは、1900年6月21日の新聞の「ハイ、カラア党」です。

取り外せる襟は、なぜ消えたのか?

1920年代に入ると、襟が最初から縫い付けられたシャツが広まり、取り外しの襟は少しずつ使われなくなっていきました。クルエット・ピーボディ社も、襟付きのシャツへ商いの中心を移していったとされます。

いま、古着屋に並ぶ古いドレスシャツの多くは襟付きです。それでも、襟と袖口だけ色を変えたクレリックシャツを見ると、襟と袖口を本体とは別の、取り替えのきく白い部品として作っていたトロイの工場と、その白い襟を洗い、糊で固めつづけた女性たちのことが頭に浮かびます。

参考文献

この記事は、まだ途中です

店主がいま確認できる範囲で書いています。ハンナ・モンタギューの名がいつから語られるようになったのか、取り外しの襟の生産がどれだけの速さで減ったのかは、確かな資料をまだ見つけられていません。分かり次第、この記事に足していきます。間違いは、まだ残っているはずです。

下のコメント欄には写真も貼れます。訂正でも、質問でも、「祖父の箪笥に取り外しの襟が残っていた」という話でも。

Tags

collarshirtarrowtroy1900shistorywhite-collar
© 2026 Kei's Vintage. 本文およびオリジナル図版(イラスト・図解)の無断転載・二次利用を禁じます。引用した写真・図版はパブリックドメイン(各キャプションに出典を明記)。

Comments

コメント・写真投稿

あなたの一着の写真や、感想・別解釈・素朴な質問を歓迎します。投稿は店主が確認のうえ公開します(すぐには表示されません)。

読み込み中...

投稿は承認後に公開されます

More Reading

次に読む

ダウンジャケットは、どうやって冬の街着になったのか? ── 軍の放出品の寝袋から、1970年代のスキー場と街へ

ダウンジャケットは、どうやって冬の街着になったのか? ── 軍の放出品の寝袋から、1970年代のスキー場と街へ

冬になると、リユース店でもダウンジャケットがよく売れます。山や極地のための服だったダウンが、街の冬着になったのは、いつ、どんな道筋だったのか。戦後の軍の放出品の羽毛の寝袋から、自分で縫うダウンベストのキット、1970年代のスキー場と街まで、当時の雑誌と博物館の記録でたどります。

ヘリンボーンは、なぜ米軍の作業服になったのか? ── 1941年、陸軍が「きしむ青いデニム」をやめた理由

ヘリンボーンは、なぜ米軍の作業服になったのか? ── 1941年、陸軍が「きしむ青いデニム」をやめた理由

2026年秋冬のメンズの注目素材に、ヘリンボーン(杉綾)が挙がっています。古着屋で「HBT」と呼ばれる米軍の杉綾の作業服は、1941年に、それまでの青いデニムの作業服に取って代わりました。陸軍はなぜデニムをやめたのか。米陸軍需品科が1946年にまとめた記録には、意外な理由が書かれていました。

黄金の20年 — 戦後アメリカの消費ブームは、服をどう変えたか

黄金の20年 — 戦後アメリカの消費ブームは、服をどう変えたか

1945年の終戦から、ベトナム戦争が本格化する1965年まで。アメリカの家庭の所得は額面でおよそ倍になり、郊外と大学とショッピングモールと「ティーンエイジャー」が発明されました。古着屋の棚のいちばん厚い地層 ── 1950〜60年代の服 ── は、この20年の豊かさと、その豊かさに若者たちが背を向けるまでの記録です。当時の実写と手元の現物でたどります。