
1959年7月24日、モスクワのアメリカ博覧会で論戦するニクソン副大統領とフルシチョフ第一書記。冷戦の主戦場のひとつは、台所と消費財だった(Thomas J. O'Halloran 撮影・U.S. News & World Report コレクション/米国議会図書館所蔵・公表に既知の制限なし)
黄金の20年 — 戦後アメリカの消費ブームは、服をどう変えたか
1945年の終戦から、ベトナム戦争が本格化する1965年まで。アメリカの家庭の所得は額面でおよそ倍になり、郊外と大学とショッピングモールと「ティーンエイジャー」が発明されました。古着屋の棚のいちばん厚い地層 ── 1950〜60年代の服 ── は、この20年の豊かさと、その豊かさに若者たちが背を向けるまでの記録です。当時の実写と手元の現物でたどります。
ひと昔前の古着屋では、棚のいちばん厚い層といえば1950〜60年代でした。いまではそれを「厚い層」のまま見られる店も減ってきましたが ── それでも出てくる個体は、戦前の服に比べれば数があり、状態がよく、そして作りが良い。この層がなぜできたのかを説明しようとすると、服の話だけでは足りません。1945年から約20年続いた、人類史でも例の少ない消費ブーム の話になります。今回はその20年を、当時の実写と手元の現物でたどります。
1945年 — 1,200万人が、同じ服で帰ってきた
終戦の年、米軍の兵力はおよそ1,200万人。彼らが順々に除隊して故郷へ帰り、クローゼットには支給された カーキやフライトジャケット がそのまま残りました。着慣れた軍服を私服として着る男たちと、市場にあふれた払い下げ品 ── 戦後アメリカの男の服は、まず 軍の在庫処分 から始まっています。
1945年6月20日、ニューヨーク港。欧州戦線からの帰還兵で甲板が埋まったクイーン・メリー号。奥にエンパイア・ステート・ビル(米軍撮影・国防総省写真 HD-SN-99-03026/パブリックドメイン)
そして帰還兵には、史上まれな「おみやげ」が付いていました。復員兵援護法 ── 通称GI法(1944年成立) です。
GI法 — 大学と家を配った法律
GI法は、帰還兵に大学の学費と住宅ローンの保証を約束しました。効果は劇的でした。1945年に8万8千人だった復員兵の大学在籍者は、1946年には100万人を超え、1947年には全米の大学生の49%が復員兵 になります。教育・職業訓練の給付を使った復員兵は約780万人、うち大学へ進んだのは200万人あまり ── 大学が、一部のエリートのものから大衆のものに変わった瞬間です。
住宅も同じでした。1947年にニューヨーク郊外で始まった建売住宅団地 レビットタウン は、1951年までに 17,447戸 を量産します。1戸あたり約8,000ドル。GI法の保証があれば、頭金はごくわずかで買えたと記録されています。
1958年、レビットタウンの住宅。芝生、2本の若木、ガレージの前の自家用車 ── 「郊外の土曜日」の舞台装置が揃っている(Gottscho-Schleisner コレクション/米国議会図書館所蔵・公表に既知の制限なし)
服の側から見ると、この2つが決定的でした。大学人口の爆発はアイビー・スタイルの土壌 になり、郊外の芝生はスポーツウェアとレジャーウェアの舞台 になります。都会のスーツでも農場の作業着でもない「郊外の土曜日の服」という巨大なジャンルが、ここで生まれました。
所得が倍になると、服はどうなるか
数字を2つだけ。米国の家庭の所得の中央値は、1950年の約3,300ドルから1960年には約5,600ドルへ(いずれも当時の額面)上がりました。物価の上昇を差し引いても、およそ6割の増加です。道路を走る自動車の登録台数は 1945年から1955年の10年で倍 になっています。
財布が膨らむと、服は「必要なもの」から「楽しむもの」に変わります。この時代の売り場を埋めたのが、ギャバジンのオープンカラーシャツ、ボウリングシャツ、ハワイから本土へ渡ったアロハシャツ といった レジャーウェア でした。
1950s、Classic Casuals のギャバジンシャツ(当店で撮影した個体)。平日のスーツを脱いだ男たちの「土曜の夜の服」
写真は 1950s の Classic Casuals ギャバジンシャツ。
1950s、Watumull's Leilani のアロハシャツ(当店で撮影した個体)。レジャーウェアの王様は、観光地ハワイから郊外の裏庭へ渡った
写真は 1950s の Watumull's Leilani アロハシャツ。
1956年 — 買い物に「屋根」が付いた
1956年10月8日、ミネアポリス郊外のエディナに サウスデール・センター が開業します。建築家ヴィクター・グルーエンが設計した、全米初の全館空調つき屋内ショッピングモール です。ミネソタの酷寒でも快適に買い物ができる「屋根の下の商店街」── 車で乗り付け、何時間でも過ごせる。買い物が「用事」から「娯楽」へ変わる転換点でした。
1956年、ニューヨーク州ヨンカーズのクロス・カウンティ・ショッピングセンター。庇付きの歩廊を買い物客が行き交い、靴屋のショーウィンドウが並ぶ。奥には「HOSPITAL」の文字を掲げた高層棟がそびえる(Gottscho-Schleisner 撮影/米国議会図書館所蔵・「No known restrictions on publication」表示/Wikimedia Commons 経由)
こちらは空の下に庇付きの歩廊をめぐらせた造りで、芝生と植え込みのあいだにはベンチも見えます。買い物の場所が「過ごせる場所」として作り込まれていく時代の空気が伝わる一枚だと思います。
モールと通信販売とテレビCM。この時代に完成した「売る側の仕掛け」は、人がつい『いつもの店』を選んでしまう仕組み と組み合わさって、その後のアメリカの買い物の原型になります。
「ティーンエイジャー」の発明
この時代、人間の新しい区分がひとつ発明されます。ティーンエイジャー です。
戦前の若者は「小さな大人」で、多くは10代で働き始めました。ところが戦後は高校進学が当たり前になり、親の財布には余裕がある。1944年には少女誌『セブンティーン』が創刊され、ユージン・ギルバートという調査屋が「ティーン市場」の専門家として身を立てます。ギルバートらの推計では、1950年代末のティーンの購買力は 年間70億〜100億ドル。巨大産業の誕生です。
そして1950年代半ば、エルビス・プレスリーとロックンロールが来ます。ティーンの制服になったのは ジーンズと白Tとスニーカー でした。映画の不良たちが着たことで、ジーンズを服装規定で禁じる高校が多かったと、リーバイス社の社史も振り返っています ── 禁止されるほど、着たくなる。西部の労働着だったはずのジーンズ が「若さと反抗の記号」に変わったのは、まさにこの黄金期の真ん中でした。
台所で戦われた冷戦
冒頭の写真は 1959年7月24日、モスクワ。アメリカ博覧会のモデルハウスで、ニクソン副大統領とフルシチョフ第一書記が論戦した、いわゆる 「台所論争」 です。ニクソンがソ連の指導者に見せつけたのは、ミサイルではなく 食洗機と冷蔵庫とカラーテレビ でした。
つまりこの時代、アメリカの豊かさは 体制の宣伝材料 でもありました。郊外の家と、2台目の車と、クローゼットの服。消費こそが「自由の証明」とされた時代 ── 古着屋の棚の1950年代が分厚いのは、この国策レベルの消費ブームの堆積なのです。
素材の革命 — 「洗って、干して、着る」
この20年は、素材の地殻変動でもありました。戦時中にパラシュートへ回されていたナイロンが民生へ戻り、1951年にはデュポンのポリエステル繊維「ダクロン」の混紡スーツが店頭に並び、1953年には本格生産が始まります。アイロンがいらない 「ウォッシュ・アンド・ウェア」 という言葉が、そのまま広告コピーになりました。
一方で、綿の労働着は旧式の存在になっていきます ── ただし、ここに後年の逆転の種があります。化繊の服が「便利で新しい」ものだったからこそ、綿100%でタフに作られた戦前〜50年代の労働着は、のちの世代の目に「本物」として映る ことになる。いま デニムの経年変化 を楽しむ文化は、この時代に化繊が勝った歴史の、裏返しでもあります。
1967年10月22日朝、ペンタゴン前。徹夜の抗議のあと、壁に腰掛ける若者たち。赤黒格子のマッキノー、軍放出の野戦パーカ、ジーンズ ── 黄金期の子どもたちの「制服」が一枚に写っている(米国国立公文書館 NARA 530619/パブリックドメイン)
1965年 — 戦後生まれの若者たちが、親の世代に背を向けた
1965年、アメリカはベトナムへの地上軍投入に踏み切り、戦争が日常のニュースになります。徴兵の対象は、まさに黄金期に生まれ育った世代でした。
上の写真は1967年10月、ペンタゴンへの大行進の翌朝です。服装を見てください。赤黒格子のウールのマッキノー(森で働く人の柄だった格子)、軍放出の野戦パーカ(皮肉を込めて着られた軍服)、そして ジーンズ。親の世代が「貧しさの服」として脱ぎ捨てた労働着と軍服を、戦後の豊かな時代しか知らない若者たちが、あえて 拾い直している ── 黄金期の終わりは、服の上にはっきり写っています。
消費の楽園として設計された20年が、その内側から「消費への疑い」を育てた。この皮肉の先に、1970年代の古着文化と、いま私たちがやっている商売があります。
古着屋の棚から見ると
1950〜60年代の服は、戦前の服に比べればまだ数が残っています。ただ、店に立っている実感を正直に言うと、年々、確実に減ってきています。市場に出てくる個体は細り、良いものから先に消えていく ── この地層も、掘り尽くされつつある地層です。
それでも、出てきた個体の多くがいまも着られる状態なのには理由があります。大量生産の時代に入っても、一着ごとの作り込みは手を抜いていなかった からです。ユニオンメイドのタグ、防縮加工(サンフォライズド)、厚い生地、太い縫い糸 ── 化繊と価格競争が本格化する前の、過渡期ならではの贅沢です。黄金期の20年は、古着屋にとって 「量と質が同時に存在した、たぶん最初で最後の時代」 だと思っています。
参考文献
- 米国国立WWII博物館: The GI Bill and Planning for the Postwar/EBSCO: G.I. Bill and American Education
- Levittown, New York(英語版Wikipedia)
- 所得の推移: NCES: Median Family Income 1950-1993
- History.com: The first enclosed shopping mall opens(Southdale, 1956)/LoC Business History: Southdale Center
- ティーン市場: Encyclopedia.com: Teenage Fashion
- CAMEO (MFA Boston): Dacron
- Kitchen Debate(英語版Wikipedia)
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