創業者伝 第12回:エディ・バウアー — 凍ったシャツの夜が、ダウンジャケットになるまで

1940年2月20日に成立した意匠特許 Des. 119,122「ジャケット」の図面。菱形のキルトステッチが描かれ、発明者としてエディ・バウアーの名が入る(米国特許商標庁/パブリックドメイン)

Eddie Bauer創業者伝

創業者伝 第12回:エディ・バウアー — 凍ったシャツの夜が、ダウンジャケットになるまで

1935年1月、オリンピック半島の凍った谷で、薄いウールのシャツ一枚の釣り人が木にもたれて立ったまま眠りかけました。拳銃を3発撃って友人を呼び、生きて帰ったその人が、翌年ダウンのジャケットを作ります。13歳で学校をやめた店員が、「狩りに出ています」の札を掛けた自分の店から、戦時の飛行服5万着まで ── エディ・バウアーの一生です。

By Kei's Vintage

冬の古着屋に並ぶダウンジャケットの、あの菱形のキルトステッチ。菱形のキルトでダウンを区切ったジャケットに、1940年、米国で意匠特許が下りました ── 会社はこれを「米国で最初に特許を取ったダウンジャケット」と説明しています。創業者伝の第12回は、その特許の主 エディ・バウアー の一生です。

13歳の店員

バウアーは 1899年10月19日、ワシントン州のオーカス島 に生まれました。両親はドイツ系で、1890年にロシアからシアトルへ渡った移民です。13歳で学校をやめ、シアトルの装備店パイパー&タフトに入りました。西海岸でも指折りの大きな装備店で、1898年ごろの金鉱掘りの装備リストにも名前が出てきます。ここで6年、古参の狩人や釣り人に交じって商売を覚えました。

1920年 — 「狩りに出ています。2月1日に戻ります」

1920年2月、20歳のバウアーは、ボブ・ニュートンの銃砲店の中に作業台を借りて「エディ・バウアーのテニス・ショップ」を開きます。ラケットを売り、ガットを張る店です。そして7か月後の9月、作業台にはこんな札が掛かりました ──

狩りに出ています。2月1日に戻ります。(Eddie Bauer has gone hunting. Back February 1st.)

半年近く店を閉めて、森へ行く。乱暴な商売に見えますが、この時間がのちに 自分の商品を自分で試す時間 になっていった、と評伝は書いています(Spector 1994)。店は釣り具も手がけ、バウアーは羽根を扱う仕事を続けました ── バドミントンの羽根(シャトル)では、1935年と1937年に特許も取っています。羽根は、ダウンの前からこの人の商売道具でした。

1927年の秋、東ワシントンの狩り場で、美容院を営む クリスティン(スタイン) と出会い、1929年に結婚します。スタインはワシントン州の女子トラップ射撃選手権を8年連続で制した腕前で、バウアーは妻を「荒野の連れ」と呼び、山では自分より妻のほうが体力がある、と言っていました。

1935年1月 — 凍ったシャツ

1935年1月の帰り道の想像図。凍ったシャツで魚を背負い、木にもたれて眠りかける(AI生成イメージ・銅版画調。顔は特定人物に似せていない)1935年1月の帰り道の想像図。凍ったシャツで魚を背負い、木にもたれて眠りかける(AI生成イメージ・銅版画調。顔は特定人物に似せていない)

転機は、死にかけた夜です。1935年1月、バウアーは毛皮猟師の友人レッド・カールソンと、オリンピック半島のスコーコミッシュ川へ冬の釣りに出ました。釣果は100ポンド(約45キロ)のスチールヘッド。1マイルの谷を登るのに、二人は汗をかかないよう厚いウールのマッキノーを脱ぎ、カールソンが先にコートと道具を運び、バウアーは薄いウールのシャツ一枚で魚を背負って登りました。

汗が冷え、シャツが凍ります。眠気が来て、木にもたれたまま、立って眠りかけました。はっと目を覚まして拳銃を3発撃ち、また眠りに落ちる ── それでも、二人は生きて帰りました。低体温症で、命を落としかけていました。帰りの車で、バウアーは一人だったらどうなっていたかを考えながら、冬の上着の工夫を練り始めます。

本人がのちに語っています ──「要るのは、暖かくて、しかも激しく動いても着ていられるほど軽く、蒸れないものだった」。重ねて思い出したのが、叔父の話です。会社の説明によれば、叔父は日露戦争でロシア軍に従軍し、満州の冬を、兵士たちが羽毛入りの外套でしのいだ と語っていました。

ダウンの上着は、バウアーが最初だったのか?

バウアーは型紙を描き、羽毛を仕入れ、町の縫い子に試作させます。名前は「ブリザード・プルーフ・ジャケット」。友人の登山家オーム・デイバーに見せると、デイバーはその場で製造を引き受けました。1年で注文がデイバーの手に余るようになり、バウアーは自分の製造会社「アークティック・フェザー・アンド・ダウン社」を作って、ジャケットの名を「スカイライナー」に改めます。

1939年12月に出願した意匠特許 Des. 119,122 は、1940年2月20日に成立しました。冒頭の図面がそれです。菱形のキルトステッチでダウンを区切り、片寄りを防ぐ ── ただし、この特許が守っているのは「図に示すジャケットの装飾的な意匠」、つまり 見た目 です。会社はこれを「米国で最初に特許を取ったダウンジャケット」と説明しています。ダウンの上着そのものは、1922年のエベレスト遠征でジョージ・フィンチが着ていました ── 日記にこうあります。「いまやみんなが私の羽毛のコートをうらやんでいる。もう誰も笑わない」。バウアーは最初の発明者ではなく、ダウンを町の人が買える既製服にして、意匠で権利にした人 です。

戦争 — B-9 と、20万個の寝袋

1941年10月には、アラスカの遠隔地を飛ぶ操縦士向けに、ダウンのパーカとズボンの意匠特許を取ります。アリューシャンの戦いの初期には、これを 自分で買って着る米軍の操縦士 がいました。1943年の初め、陸軍航空隊はバウアーに「寒冷地用の、浮力のある飛行服」の設計を依頼します。オハイオのライト飛行場で設計されたのが B-9 パーカと A-8 飛行ズボン(米軍の飛行服の系譜は A-2 から M-65 までの米軍ジャケットの記事 に書いています)── 戦争中に 約5万着、ほかに ダウン寝袋を20万個 納めました。本人の言葉が残っています ──

命がかかっているときに、品質の妥協はありえない。(There can be no compromising quality when lives depend on performance.)

K2 と、カタログの標語

戦後のカタログ(1945年)の標語は、ふるっています ──「あなたが必要としないほどの働きのために作られている(Built for service you'll never require.)」。

1953年、第3次アメリカ・カラコルム遠征隊(K2)のために「カラコルム・パーカ」を作り、隊長チャールズ・ヒューストンは「私が見てきた中で最良の、寒冷地・高所装備だ」と手紙に書きました。その後も、1958年のガッシャーブルムI峰、1963年のアメリカ隊初のエベレスト登頂、1966年の南極ヴィンソン・マシフ初登頂と、バウアーのダウンは高所遠征の定番になっていきます。

1968年 — 会社を手放す

1968年、バウアーは息子エディ・クリスチャンとともに、持ち分を共同経営者のウィリアム・F・ニエミ父子に売りました。以後の人生は、狩りと釣りと、ラブラドール・レトリーバーの繁殖です。1960年に作った犬舎からは米国のラブラドールで初の三冠犬が出て、1974年には「年間最優秀ブリーダー」に選ばれました。1972年には、釣りのルアーでも特許を取っています。最後まで、道具と野外の人でした。

1986年 — 荒野の連れの、2週間後

1986年4月の初めに妻スタインが亡くなり、その2週間後の4月18日、バウアーもワシントン州ベルビューで亡くなりました。86歳。13歳で学校をやめた店員は、凍えかけた一夜のあと、軍に飛行服約5万着と寝袋20万個を納めるところまで来ました。

いま、私たちが手に取る一着の意味

古いダウンジャケットの菱形のキルトを指でなぞるとき、そこにあるのは1935年1月の凍ったシャツと、「狩りに出ています」の札と、「命がかかっているときに品質の妥協はありえない」という言葉です。スカイライナーは、発明のひらめきではなく、死にかけた人が二度と寒さに負けないために作った道具 でした。

次回の創業者伝も、リクエストがあればコメント欄へどうぞ。

参考文献

この記事は、まだ途中です

店主がいま確認できる範囲で書いています。実物を手に取るたびに「あれ、話が違うぞ」と気づくことがあって、そのたび書き直しています。間違いは、まだ残っているはずです。

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