格子柄のアメリカ — フランネルシャツと Woolrich・Filson、そしてグランジまで

1937年9月、ミネソタ州エフィー近くの木こりキャンプ。大格子のネルシャツ姿で洗濯をする木こり ── 「森で働く人の柄」の現場そのもの(Russell Lee 撮影・FSA/米国議会図書館所蔵/パブリックドメイン)

1830-1990s

格子柄のアメリカ — フランネルシャツと Woolrich・Filson、そしてグランジまで

赤と黒の大きな格子 ── バッファローチェックほど「アメリカの柄」として刷り込まれた模様はありません。1830年のペンシルベニアの毛織工場から、ゴールドラッシュのシアトル、印刷ネルの大衆化、そして1990年代のグランジまで。格子柄という切り口でアメリカを縦断します。

By Kei's Vintage
この記事の動画版です。古着屋の目で、当時の実写映像とともにたどります。

ヴィンテージの棚でフランネルシャツを1枚手に取る。赤黒の格子。この柄は、どこから来たのでしょう。 今回はブランド1社ではなく、柄と素材 を主役に、170年ぶんを縦断します。

1830年、ペンシルベニアの山の中 — Woolrich

出発点は Woolrich(ウールリッチ) です。創業者 ジョン・リッチ は、イングランドのウィルトシャーで、羊毛を梳く職人の家に生まれました。1811年、25歳でアメリカへ渡り、フィラデルフィア郊外ジャーマンタウンの毛織工場で梳毛工(ウールの繊維を梳きそろえる仕事)として働き始めます。数年後にはペンシルベニア内陸の山地(クリントン郡)へ移り、小さな毛織工場を借りて動かしていました。そして 1830年、同業のダニエル・マコーミックと組んで、プラム・ランの小川沿いに自分たちの毛織工場 を建てます。

売り方について、会社は リッチがラバの荷車に毛織物や靴下を積み、木こりのキャンプを回って売り歩いた と伝えています。当時の記録に残っているのは、のちに行商人を雇って農家を回り、品物と羊毛・現金を取り換えた 商いです(1930年の村史)。売った布の対価が、次の布の原料になって戻ってくる ── 山の中で完結する、小さな循環です。周囲は木こり・罠猟師・猟師だらけの山岳地帯。ペンシルベニアの冬を屋外で働く人々にとって、ウールは文字どおりの生存装備でした。

工場は当たります。1834年、水量を求めてチャタム・ランへ移転。300エーカーの土地を買い、まず製材所を建て、工場も工員の丸太小屋も自分たちの木材で建てました。1840年代にマコーミックとの共同を解き、1845年に新しい工場を建てます。工員の家が建ち並んだ集落は、ファクトリーヴィル、リッチヴィルと呼ばれたのち ── いまも地図に残る ペンシルベニア州ウールリッチ になりました。

1890年頃、スケハナ川西支流の材木筏。ウールリッチの工場が立つクリントン郡を流れるこの流域一帯が、リッチの顧客だった木こりたちの現場(米国議会図書館所蔵 LCCN2016650769/パブリックドメイン)1890年頃、スケハナ川西支流の材木筏。ウールリッチの工場が立つクリントン郡を流れるこの流域一帯が、リッチの顧客だった木こりたちの現場(米国議会図書館所蔵 LCCN2016650769/パブリックドメイン)

時代の節目も、この山あいの工場を通り過ぎていきます。南北戦争では北軍向けの毛布を織り、のちの二つの世界大戦でも兵士の靴下や毛布を供給しました。「北軍に毛布を納めた毛織工場で、いまも動いているのはうちだけ」── 社史はそう誇っていました(その工場も、のちの2018年に止まります)。リッチの死後も会社は一族の手で続き、「アメリカ最古のアウトドアウェアメーカー」を名乗ることになります。

ウールリッチ社は、1850年に赤と黒の格子のウールのシャツ を作ったと説明しています。柄自体はスコットランド由来の古い格子ですが、これを「バッファロープラッド」と呼んだのは ウールリッチのデザイナーが自分のバッファローの群れにちなんで名付けたから ── という有名な逸話があります。ただしこれは 伝説の域を出ない話 で、公式にも「Rumor has it(噂によれば)」と語られる類のものです。名前の由来は諸説あり、として楽しむのが正しい距離感だと思います。

確かなのは、赤黒の大格子が「森で働く人の柄」として定着した ことです。深い緑の森の中で、赤黒の格子は人間をよく目立たせます。狩猟の誤射を防ぐため、という説明もよくされます。

木こりと開拓の時代の背景は Vintage History 第1回 と地続きの話です。

1897年、ゴールドラッシュのシアトル — Filson

続いて西海岸。クリントン・C・フィルソン は 1850年、オハイオ生まれ。7人きょうだいの長子としてネブラスカの開拓町で育ち、鉄道の車掌などを経て、1890年、40歳で州になったばかりのワシントンへ 渡ります。ただし、ここからの7年は失敗続きでした。湖畔の町カークランドで開いた雑貨店は1年あまりで共同経営を解消し、鉱山へ向かう客をあてにしたサウク・シティの店は、鉄道が町を素通りするようになって閉店。郵便局長を務めて食いつないだ時期もあります。そして 1897年、クロンダイクの金の報せに合わせて、47歳でシアトルに装備の店を開きました。社名にうたったのは 「パイオニア・アラスカ・クロージング・アンド・ブランケット・マニュファクチャラーズ」 ── 極北へ向かう男たちに服と毛布を売る、という商売がそのまま看板になっています。47歳の、遅い起業でした。

1898年、チルクート峠の「黄金の階段」を一列になって越えるクロンダイクの金鉱掘りたち。この行列の装備を、シアトルの店で商ったのがフィルソンだった(Eric A. Hegg 撮影・1898年/Wikimedia Commons経由/パブリックドメイン)1898年、チルクート峠の「黄金の階段」を一列になって越えるクロンダイクの金鉱掘りたち。この行列の装備を、シアトルの店で商ったのがフィルソンだった(Eric A. Hegg 撮影・1898年/Wikimedia Commons経由/パブリックドメイン)

Filson の名を決定的にしたのが クルーザー(Mackinaw Cruiser) です。1912年10月に出願、1914年3月3日に特許(US Patent No. 1,088,891) が成立したこのウールシャツジャケットは、ティンバークルーザー ── 森の奥へ分け入って木材の質と量を見立てる調査員 ── のために設計されました。背中一面のマップポケット、腕を回しやすい作り。服の名前が、そのまま職業の名前 なのです。

米国特許1,088,891号の図面原本。「C.C. FILSON. SHIRT.」── Fig.1 に背中一面のマップポケットが見える。出願1912年10月28日、特許1914年3月3日(米国特許商標庁/パブリックドメイン)米国特許1,088,891号の図面原本。「C.C. FILSON. SHIRT.」── Fig.1 に背中一面のマップポケットが見える。出願1912年10月28日、特許1914年3月3日(米国特許商標庁/パブリックドメイン)

「マッキーノー」という呼び名の由来としてよく知られるのは、1811年ごろ、ミシガン州マッキノー一帯で先住民に配るための厚手の毛布を兵士の上着に仕立て直したのが始まり、という話です。

1914年のカタログには、フィルソン本人の声がそのまま残っています。

北へ行く人は、うちで装備を揃えてほしい。あの土地で何を着るのがいちばん良いか、私たちは北から帰ってきた男たちの経験から学んできた ── 一人からではなく、何百人からです。

全品に保証を付けて商い、北の古参の金鉱掘りたちは新入りにこう教えていたといいます ──「フィルソンの請求書は、確かめなくていい。品物と一緒に来た額を、そのまま払えばいい」。1919年に彼が亡くなったとき、シアトルの新聞の死亡記事がこの評判を書き残しました。会社はその後、妻のウィニフレッドが社長として39年間守り、実務は古参の店員と甥が支えました。クルーザーの古い個体がいまも現役で着られているのは、この信用が広告のための飾りではなかった証拠だと思います。

Woolrich は「東の森の木こり」、Filson は「北へ向かう金鉱掘りと森林調査員」。アメリカのウールの格子は、二つの森で生まれた ── そう覚えると地図が頭に入ります。

素材の系譜 — ウールネルから「印刷ネル」へ

フランネル(ネル)はもともと 起毛したウールの柔らかい織物 を指しました。19世紀のうちに、綿で作る安い コットンフランネル も広まったとされます。シャツでは、1950〜60年代に 印刷ネル(プリントネル) が多く作られました。格子を糸で織るのではなく、起毛した無地の生地に柄を印刷してしまう 方式です。

先染めチェックと印刷ネルの見分け方。裏を見たとき、先染めは裏まで柄が通り、印刷ネルは裏が白っぽい(Kei's Vintage 独自作成)先染めチェックと印刷ネルの見分け方。裏を見たとき、先染めは裏まで柄が通り、印刷ネルは裏が白っぽい(Kei's Vintage 独自作成)

見分け方は簡単で、裏を見る だけです。

  • 先染め(織り柄):糸を染めてから織るので、裏にもほぼ同じ柄が通る
  • 印刷ネル:表に柄を刷るので、裏は白っぽく柄が出ない

大事なのは、印刷ネル=安物、と切り捨てないこと です。織るより安く、色も柄も自由にできたので、アメリカの若者の普段着として広まったとされます(FASHIONSNAP「令和のマストバイヴィンテージ vol.48 プリントネルシャツ編」)。以前は織りのネルより低く見られていましたが、いまは探す人が増えています。ペニーやワードの売り場にも、この手のネルが山ほど並んでいたはずです。

ウール側の名門としては、オレゴンの Pendleton の名前も挙げておきます。

1990年代 — 労働着が「反抗の柄」になる

そして90年代。シアトル ── Filson の街です ── から出てきた グランジ が、フランネルシャツを時代の顔にしました。ニルヴァーナのカート・コバーンが着たヨレたネルシャツは、「安くて、どこにでもあって、飾らない」 ことがそのまま反抗の表明になった例です。

面白いのは、彼らが着たのが高級なウールリッチやフィルソンではなく、古着屋の棚の名もないネルシャツ だったこと。労働の柄が、労働と関係のない世代に「本物らしさ」の記号として拾い直される ── ラルフローレンが90年代の街に乗っ取られた話 と同じ構造が、正反対の価格帯で起きていたわけです。

店頭での目安

  • 裏を見る:先染めか印刷か。上の図の読み方で
  • 素材:ウールかコットンか混紡か。タグの組成表示と W.P.L./RN の読み方 で年代の傍証が取れます
  • マチ(ガゼット):裾の脇に三角の当て布があるものは古い仕様に多い、とされます(断定材料にはしない)
  • Filson のクルーザー:現行も仕様が近いロングセラーなので、タグと縫製で年代を確認する癖を

おわりに

ペンシルベニアの山の毛織工場の1830年から、シアトルのステージで掻き鳴らされた1990年代まで。格子柄の170年は、「働く人の実用」が「文化の記号」に変わっていく過程 そのものです。赤と黒の格子は、ネルシャツの代名詞として、いまも多くの人に愛されています。その一方で、バッファローチェックを広めたとされるペンシルベニアのウールリッチの工場は、2018年に止まりました。

この記事は、まだ途中です

店主がいま確認できる範囲で書いています。実物を手に取るたびに「あれ、話が違うぞ」と気づくことがあって、そのたび書き直しています。間違いは、まだ残っているはずです。

下のコメント欄には写真も貼れます。訂正でも、質問でも、雑談でも。

Tags

flannelbuffalo-checkwoolrichfilsonvintagegrungeprinted-flannel
© 2026 Kei's Vintage. 本文およびオリジナル図版(イラスト・図解)の無断転載・二次利用を禁じます。引用した写真・図版はパブリックドメイン(各キャプションに出典を明記)。

Comments

コメント・写真投稿

あなたの一着の写真や、感想・別解釈・素朴な質問を歓迎します。投稿は店主が確認のうえ公開します(すぐには表示されません)。

読み込み中...

投稿は承認後に公開されます

More Reading

次に読む

創業者伝 第4回:C.C.フィルソン — 素通りされた町の店主が、47歳でゴールドラッシュに賭けるまで
FILSON創業者伝

創業者伝 第4回:C.C.フィルソン — 素通りされた町の店主が、47歳でゴールドラッシュに賭けるまで

「町長でホテル経営者」── ブランドの紹介によく出てくるこの経歴は、調べてみると本人ではなく父のものでした。本人の40代は、雑貨店の解散、鉄道に素通りされた店、郵便局長としての食いつなぎ。失敗を重ねた男が1897年のシアトルで開いた装備店がFilsonになります。妻と甥と古参の店員が守った没後まで、一生を追います。

創業者伝 第10回:ウィリアム・フィンク — 列車の売り子が、「割に合うからだ」と組合の服を作るまで
FINCK'S創業者伝

創業者伝 第10回:ウィリアム・フィンク — 列車の売り子が、「割に合うからだ」と組合の服を作るまで

デトロイトでカーハートと張り合った、豚の頭のボタンの FINCK'S。その創業者ウィリアム・フィンクは、10歳で父を亡くし、12歳の現金運びから列車の売り子を経て、48歳で自分の会社を興した人です。「組合の労働者を雇う理由? 割に合うからだ」と帳面に書き、営業員には「もっと苦情を送ってくれ」と頼んだ ── 職人気質の経営者の一生と、ライバルの製品ラベルの中に名前が残るまでを追います。

創業者伝 第9回:ハイネマン家とエロッサー家 — 15歳の店員の名が、社名の先頭に来るまで
CAN'T BUST 'EM創業者伝

創業者伝 第9回:ハイネマン家とエロッサー家 — 15歳の店員の名が、社名の先頭に来るまで

「CAN'T BUST 'EM(破れっこない)」のニワトリ印で知られるサンフランシスコの作業着の会社は、1851年から1946年まで、95年間ずっと同族の手にありました。メルボルンから165日の船旅で来た弟、15歳で入社して70年働いた店員、その店員の名前が社名の先頭に来た理由 ── 二つの家族がひとつの会社を守った物語です。