
1908年5月、サンタフェ鉄道の社員向け雑誌に載った FINCK'S「デトロイト・スペシャル」の広告。「UNION MADE ── 欠点なしのオーバーオール」(W.M. Finck & Co.・1908年公刊/パブリックドメイン)
創業者伝 第10回:ウィリアム・フィンク — 列車の売り子が、「割に合うからだ」と組合の服を作るまで
デトロイトでカーハートと張り合った、豚の頭のボタンの FINCK'S。その創業者ウィリアム・フィンクは、10歳で父を亡くし、12歳の現金運びから列車の売り子を経て、48歳で自分の会社を興した人です。「組合の労働者を雇う理由? 割に合うからだ」と帳面に書き、営業員には「もっと苦情を送ってくれ」と頼んだ ── 職人気質の経営者の一生と、ライバルの製品ラベルの中に名前が残るまでを追います。
古着のワークジャケットで、カーハートによく似た作りで、ボタンに 豚の頭 が打ち出されていたら、それが FINCK'S(フィンクス) ── デトロイトで、カーハートと同じ時代に作業着を作っていた会社です(デトロイトの背景は デトロイトという街とカーハートの話 に書きました)。創業者伝の第10回は、その ウィリアム・ミューア・フィンク の一生です。カーハートの隣で30年あまり張り合い、死後に、その製品ラベルの中へ名前が入った人です。
12歳の現金運び、16歳の列車の売り子
フィンクは 1854年6月25日、ニューヨーク州ウェイン郡ライオンズ に生まれました。父デヴィッドは大学を出た教師で、ウォルコットの町に自分の学校を開いていた人です。その父が 1864年に亡くなります。ウィリアム、10歳。一家はシラキュースへ移り、少年は 12歳で呉服店の現金運び(キャッシュ・ボーイ) になりました。働きながら、シラキュースの公立学校には通い続けています。
次はウェスタン・ユニオンの電報配達。そして 16歳からは、列車の車内で新聞や菓子を売る「トレイン・ボーイ」 ── シラキュースとロチェスターの間を売り歩き、1870年にデトロイトへ移ってからは、デトロイトとグランドヘイヴンを結ぶ路線で同じ仕事を続けました。
1870年ごろ、列車の車内で物を売る売り子の想像図(AI生成イメージ・銅版画調。フィンク本人の写真は見つかっておらず、顔は似せていない)
なぜ倍の値段のオーバーオールが、売れたのか?
服の仕事に入ったのは、1878年。ニューヨーク州ペン・ヤンで 母方の叔父チャールズ・フィッツシモンズの洋服店 の店員になります。叔父はオーバーオール製造の草分けのひとりで、フィンクはまもなく工場を任されました。
1885年、叔父と二人でデトロイトへ移り、「フィッツシモンズ&フィンク」を興します。作ったのは ミシガン州で最初の高級オーバーオール ── 並のオーバーオールが1ダース4〜5ドルの時代に、8〜9ドル の品です。高すぎて店が尻込みし、ほとんどを「現物を見てから買ってもらう(オン・アプルーバル)」方式で売るしかありませんでした。それでも品は通り、1886年には24番街に自前の平屋の工場を建て、25人で操業を始めています。
1891年 — カーハートの製造を受け持った11年
1891年、フィンクは叔父との会社を離れます。次の仕事について、本人存命中の1909年に出たデトロイトの人物誌は「ハミルトン・カーハートと組んで、ハミルトン・カーハート商会を作った」 と書いています。一方、デトロイト歴史協会の事典は「職を得た」と書く ── 共同経営者か、雇われの幹部か、資料で割れるところです。どちらにしても、1902年までの11年間、製造部門を直接受け持った ことは両方の資料が伝えています。
1900年刊の人物名鑑に載ったハミルトン・カーハート。フィンクが1891年から11年、製造部門を受け持った相手(『Men of Progress』1900年刊/Wikimedia Commons経由/パブリックドメイン)
カーハートの回 で書いた「屋根裏のミシン2台」の会社が鉄道員の作業着で育っていく時期と、ちょうど重なります。その製造の現場を仕切っていたのが、元トレイン・ボーイのフィンクでした。
1902年 — 自分の名前の会社
1902年、フィンクはカーハート商会を退き、自分の名前の会社「W.M. Finck & Company」を興します。47〜48歳。共同経営者は、営業・財務・仕入れを受け持つ ジェームズ・L・リー。資本金6万ドル、社員は事務を入れて70人の出発でした。
伸び方は急でした。1909年にはグラティオ通りの工場で従業員800人、賃金と給料は年27万5千ドル。人物誌は、デトロイトが全米の高級オーバーオールの50%を作る町になったと書いています。看板商品は 「デトロイト・スペシャル」 ── 冒頭の広告がそれです。並外れた体格の機関士の談話を載せ、前と後ろの写真に「FIT(合う)」「WEAR(もつ)」とだけ言わせる。文句は「欠点なしのオーバーオール」でした。
作りにも数字が残っています。競合が1ダースを35ヤードの布で作るところ、フィンクスは縮みを見込んで42ヤード を使いました。高いのには理由がある、という売り方です。
「割に合うからだ」
フィンクスは 全品組合製(ユニオン・メイド) を看板にしました。その理由を、会社の工場の帳面がはっきり書き残しています ──
なぜ組合の労働者を雇い、製品に組合ラベルを付けるのかと聞かれたら、こう答える。「割に合うからだ(It pays!)」。われわれは、慈善や博愛で商売をしているふりはしない。最良の材料を買うのも、同じ理由だ。粗悪な服を作ることは、失敗を意味する。われわれは、失敗するわけにはいかない。(To make an inferior garment would mean failure. We cannot fail.)
きれいごとを言わない宣言ですが、裏を返せば「良い働き手と良い材料には、それだけの値打ちがある」という話です。カーハートの回 の「正直な1ドル」と並べると、同じ町の同業二人が、別の言葉で同じ商売観を語っているのが見えてきます。
「もっと苦情を送ってくれ」
フィンクの人柄は、相棒のリーが1917年に業界誌へ寄せた文章に残っています。細部に異常なほど気を配る人で、手直しのきかない傷のある服は捨てた。そして 1916年12月、デトロイトの営業会議で、フィンクは営業員たちにこう頼んだ といいます ──「もっと苦情を送ってほしい」。苦情が多く集まるほど、製品は完璧に近づくから、と。
宣伝の言葉選びも振るっていました。「豚の鼻なみに、もつ(Wear Like a Pig's Nose)」。ボタンには豚の頭と「FINCK」「DETROIT」の文字。広告には「ジョン・レイバーハード(働き者)」「フレッド・オートオーナー(車持ち)」といった語呂の人物まで登場します。真面目一徹の工場と、ひとを食った広告 ── この取り合わせが、フィンクスという会社でした。
屋敷と晩年
私生活は、会社ほどにぎやかではありません。1897年、43歳でオハイオ州デイトンのキャサリン・ライナーと結婚。子どもはいませんでした。住まいは、デトロイトのインディアン・ヴィレッジ近くに構えた屋敷です(設計は、当地の名建築家ジョージ・D・メイソン)。1936年、フィンクは81歳で亡くなりました。
死後の合併 — ライバルのラベルの中へ
カーハートが自動車事故で亡くなるのは、フィンクの死の翌1937年です。それから四半世紀 ──
1960年、カーハート社が W.M. Finck & Co. を買い取りました。しばらくは「Carhartt Headlight & Finck」のラベルで売られ、1965年、ハミルトン・カーハート・オーバーオール社と W.M. Finck & Co. の合併によって、いまの Carhartt, Inc. が発足します。30年あまり張り合った二人の会社は、二人の死後に、ひとつの法人になりました。フィンクの名前は、ライバルの製品ラベルの中で、しばらく生き続けたことになります。
いま、私たちが手に取る一着の意味
古着屋で豚の頭のボタンに出会うことは、めったにありません。それでも FINCK'S の一着の後ろには、12歳の現金運びから列車の売り子を経て、1902年に独立し、7年で800人の工場を率いるまでになった人と、「割に合うからだ」と言い切った組合ラベルと、「もっと苦情を」と頼んだ品質への執念があります。フィンクの会社は、30年あまりカーハートと張り合い、最後はカーハートの一部になりました。
次回の創業者伝も、リクエストがあればコメント欄へどうぞ。
参考文献
- 『Compendium of History and Biography of the City of Detroit and Wayne County, Michigan』(1909)(会社紹介 pp.225-226・本人の略伝 pp.601-602・弟レオンの略伝)
- W.M. Finck & Co. 広告 Santa Fe Employes' Magazine 1908年5月号(HathiTrust/Wikimedia Commons)
- Detroit Historical Society「W.M. Finck & Co.」Encyclopedia of Detroit
- James L. Lee の寄稿 Clothing Trade Journal(1917)および W.M. Finck & Co. の工場の帳面(Sweet Juniper「Finck's Overalls」2010 の書き起こしによる)
- 「Carhartt, Inc.」International Directory of Company Histories(encyclopedia.com。1960年の買収・1965年の合併)
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