創業者伝 第4回:C.C.フィルソン — 素通りされた町の店主が、47歳でゴールドラッシュに賭けるまで

1894年頃、エヴェレット〜モンテ・クリスト鉄道。この路線の開通で、フィルソンの店があったサウク・シティは素通りされる町になった(Frank La Roche 撮影・撮影者1936年没/Wikimedia Commons経由/パブリックドメイン)

FILSON創業者伝

創業者伝 第4回:C.C.フィルソン — 素通りされた町の店主が、47歳でゴールドラッシュに賭けるまで

「町長でホテル経営者」── ブランドの紹介によく出てくるこの経歴は、調べてみると本人ではなく父のものでした。本人の40代は、雑貨店の解散、鉄道に素通りされた店、郵便局長としての食いつなぎ。失敗を重ねた男が1897年のシアトルで開いた装備店がFilsonになります。妻と甥と古参の店員が守った没後まで、一生を追います。

By Kei's Vintage
この記事の動画版です。古着屋の目で、当時の実写映像とともにたどります。

古着屋でフィルソンのマッキノー・クルーザーを手に取ると、まず重さに驚きます。分厚いウール、油を含ませた帆布 ── 100年あまり「北で働く人の道具」として作られてきた質感です(格子柄のネルシャツの記事 でも、Filson は「北へ向かう金鉱掘りと森林調査員の店」だと書きました)。創業者伝の第4回は、その店を開いた クリントン・C・フィルソン の一生です。

「町長でホテル経営者」は、本当に本人の経歴?

ブランドの紹介文にはしばしば、「フィルソンは鉄道車掌で、町長で、ホテル経営者だった」と書かれます。ところが 1882年刊のネブラスカ州史で確かめると、1880年にハンボルトの町長になり、宿「フィルソン・ハウス」を開いたのは、父のジョージ・M・フィルソン です。父は町いちばんの宿も切り盛りし、友愛団体の地元支部の初代長も務めた、いわば町の顔役でした。

本人について資料で確かめられるのは、1850年1月27日にオハイオで生まれ、7人きょうだいの長子としてネブラスカ州ハンボルトへ移り、30歳ごろまで主にシカゴ・ミルウォーキー・セントポール鉄道の車掌をしていた こと。1886年に父を亡くし、翌1887年、37歳で ウィニフレッド・C・エグバート と結婚しています。確かなのは、ここから先の歩みが順調ではなかったことです。

C.C.フィルソン(1850-1919)。1917年頃に撮影された会員肖像を参考に描いた挿絵(AI生成イメージ・銅版画調)C.C.フィルソン(1850-1919)。1917年頃に撮影された会員肖像を参考に描いた挿絵(AI生成イメージ・銅版画調)

1890年代 — 何に失敗し続けたのか?

1890年、40歳。フィルソン夫妻は、州に昇格したばかりのワシントンへ渡ります。そこからの7年は、やり直しの連続でした。

  • 1891年 シアトル対岸の町カークランドで、郷里の友人と雑貨店「フィルソン&ティマーマン」を開く ── 翌年、共同経営は解消。手伝っていた弟クロードも去る
  • 1892年頃 山あいのサウク・シティで「フィルソン・ハワード商会」。1889年に金が出た鉱山町モンテ・クリストへ向かう人々に、服と道具を売る店でした
  • 1893年 エヴェレットとモンテ・クリストを結ぶ鉄道が開通し、客はサウク・シティに立ち寄らなくなります。店じまい。同じ年の恐慌で、カークランドを「西のピッツバーグ」にするはずだった製鉄所の計画も潰れました
  • 1894年2月 カークランドの 郵便局長 に任命されます(前任者が罷免された後釜でした)。以後3年ほど、商売の記録はありません

冒頭の写真が、その鉄道です。線路が通れば栄える町と、素通りされる町ができる ── フィルソンは素通りされる側で店を畳みました。大陸横断鉄道の時代 の、小さな地方版です。

1897年 — 47歳、クロンダイクに賭ける

1897年7月、クロンダイクの金を積んだ船がシアトルに着き、街はゴールドラッシュの玄関口になります。フィルソンはこの年、47歳でシアトルに店を開きました。翌1898年には市内2か所に店を構え、掲げた屋号の後半は 「パイオニア・アラスカ・クロージング・アンド・ブランケット・マニュファクチャラーズ」 ── 北へ向かう男たちの服と毛布を、自前の織場の生地で作って売る、という商売がそのまま看板になっています。

売り方は徹底していました。1898年3月の新聞広告は、峠道に凍りついた骸骨の漫画に「安物の装備屋の犠牲者」の札 を付け、「あなたの命は、装備しだいかもしれない」と書く恐怖訴求。同じ日の紙面の別の広告では、峠を何度も越えたユーコンの古参鉱夫マイク・ケリーが無料相談所を受け持つ と打ち出しています。安さではなく「北を知っていること」で競争相手と戦う ── 事実として、この店だけが現在まで残りました。

クロンダイク行きを控えたロバート・マクファデンという男が、北に詳しい誰かから渡された装備リストの原本が、ワシントン大学に残っています。1898年頃のものとされるそのリストの「Filson's」の欄には 「クルーザー・シャツ 5ドル」 ── のちの特許の出願より14年も前から、その名前の商品が売られていたことになります。リストの裏にはこう書き込まれています。「アラスカには衣蛾がいないから、余った服は要る時までしまっておくのがいい」。

道具としてのシャツ — 1914年の特許

米国特許1,088,891号の図面原本。「C.C. FILSON. SHIRT.」── Fig.1 に背中一面の大きなポケット(のちに地図入れとして知られる)が見える。出願1912年10月28日、特許1914年3月3日(米国特許商標庁/パブリックドメイン)米国特許1,088,891号の図面原本。「C.C. FILSON. SHIRT.」── Fig.1 に背中一面の大きなポケット(のちに地図入れとして知られる)が見える。出願1912年10月28日、特許1914年3月3日(米国特許商標庁/パブリックドメイン)

1912年10月、62歳のフィルソンは「シャツ」の特許を出願します(成立は1914年3月3日、第1,088,891号)。明細書には、この服が「現場技師、森林警備員、クルーザー(森林調査員)、探鉱者」のためのものだと書かれ、肩から背中を二重にした生地は同じ重さの一枚布より「寒さと湿気」から体を守る、とあります。胸の小ポケットを縦の縫い目で細く仕切った理由も明細書にあります ── 「鉛筆などを差すため」。木を数えて帳面に付ける森林調査員なら、この細いポケットを帳面付けの鉛筆に使ったのでしょう。

1903年ごろとされる絵はがきに写るシアトルのファースト・アベニュー。宛名書きを添えて実際に投函された一枚。フィルソンの店は1902年から、この通りのグローブ・ビルに22年間入っていた(1900年代の郵送絵はがき/Wikimedia Commons 経由/パブリックドメイン)1903年ごろとされる絵はがきに写るシアトルのファースト・アベニュー。宛名書きを添えて実際に投函された一枚。フィルソンの店は1902年から、この通りのグローブ・ビルに22年間入っていた(1900年代の郵送絵はがき/Wikimedia Commons 経由/パブリックドメイン)

店は1902年からファースト・アベニューのグローブ・ビルに22年間。1914年には最初のカタログを出します。会社が伝えるそのカタログの一節 ──「北へ行く人は、うちで装備を揃えてほしい。何が良いかは北から帰った男たち、何百人から学んだ」── は、ネルシャツの記事に書いたとおりです。

Filson 社がいまも自社の沿革で紹介している1914年のカタログの一節に、本人名義の客への呼びかけがあります(原本ではなく、会社の引用によるものです)──

お客様へ ── 北へ行くのなら、装備はうちで。あの土地で何を着るのがいちばん良いか、私たちは北から来た男たちの経験から教わってきました ── ひとりからではなく、何百人からも。(To our customers: if a man is going North, he should come to us for his outfit, because we have obtained our ideas of what is best to wear in that country from the experience of the man from the North — not merely one — but hundreds of them.)── 1914年のカタログ(Filson 公式サイトが引用)

1919年 — オレゴンの温泉地で

1919年、フィルソンは会社を法人化し、その年の12月21日に69歳で亡くなります。退任はしていません。最後まで社長でした。亡くなった場所は、オレゴン州ラ・グランドとする資料と、その近くの温泉地ホット・レイクとする資料があります。

1915年頃の絵葉書に残るホット・レイクの療養施設。オレゴン州ユニオン郡の温泉地で、フィルソンの死亡地はラ・グランドとする資料が有力だが、この温泉地とする資料もある(1915年頃の絵葉書/Wikimedia Commons経由/パブリックドメイン)1915年頃の絵葉書に残るホット・レイクの療養施設。オレゴン州ユニオン郡の温泉地で、フィルソンの死亡地はラ・グランドとする資料が有力だが、この温泉地とする資料もある(1915年頃の絵葉書/Wikimedia Commons経由/パブリックドメイン)

シアトルの新聞の死亡記事は、北の古参たちが新入りに教えていた言葉を書き残しました ──「フィルソンの請求書は疑わなくていい、いつも正しいから。欲しい物を手紙で伝えて、品物が届いたら払えばいい。向こうはこっちを信用してくれるし、こっちもあの男を頼りにできる」。記事はフィルソンを「自分の品物を信じ、その品質を請け合う、昔気質の商人」と評しています。

残された会社 — 妻と、甥と、古参の店員

夫妻に子はいませんでした。会社は 妻のウィニフレッドが社長 を39年間つとめ、「クリントンのただ一人の甥」ジョージ・ストローブルが副社長、古参の店員ユリシーズ・S・ディックが書記兼会計 という3人の体制で続きます。1929年刊の郡史は、会社の繁栄を「主にディックの不断の努力の成果」と書きました。

順風だけではありません。1927年にはクルーザーの模倣品を相手に訴訟 を起こしますが、費用がかさみ、模倣を止めきれないまま特許は期限を迎えます。1935年には、実務を支えてきたディックが退社 しました。1936年には甥のストローブルが書記兼会計として戻り、1958年にウィニフレッドが94歳で亡くなる と経営はストローブルへ。1964年に彼も亡くなると会社は一時、弁護士と銀行の管理下に入り、1965年に外から来たテッド・リードが経営に就いて、1970年に会社を買い取りました。家族と、家族同然の店員が、創業者の死後45年にわたって店の名前を守った計算になります。

いま、私たちが手に取る一着の意味

古いクルーザーの胸ポケットに鉛筆を差してみると、特許明細書の「鉛筆などを差すため」という一行がそのまま手に残ります。1898年の装備リストの「クルーザー・シャツ 5ドル」から、模倣品との訴訟、会社が買い取られた1970年まで ── 一着のウールシャツの背後には、素通りされた町の店主が47歳から積み直した商いの、全部が畳まれています。

次回の創業者伝も、リクエストがあればコメント欄へどうぞ。

参考文献

この記事は、まだ途中です

店主がいま確認できる範囲で書いています。実物を手に取るたびに「あれ、話が違うぞ」と気づくことがあって、そのたび書き直しています。間違いは、まだ残っているはずです。

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