
1906年4月18日、燃えるサンフランシスコをサクラメント街の坂から見下ろす人々。この火事で、ハイネマンとエロッサーの会社も社屋を失った(Arnold Genthe 撮影・1906年/パブリックドメイン)
創業者伝 第9回:ハイネマン家とエロッサー家 — 15歳の店員の名が、社名の先頭に来るまで
「CAN'T BUST 'EM(破れっこない)」のニワトリ印で知られるサンフランシスコの作業着の会社は、1851年から1946年まで、95年間ずっと同族の手にありました。メルボルンから165日の船旅で来た弟、15歳で入社して70年働いた店員、その店員の名前が社名の先頭に来た理由 ── 二つの家族がひとつの会社を守った物語です。
古着のワークウェアで「CAN'T BUST 'EM(破れっこない)」のニワトリ印に出会ったら、それはサンフランシスコで95年続いた同族会社の名残です。創業者伝の第9回は、ゴールドラッシュの町でリーバイより2年早く店を開き、「CAN'T BUST 'EM(破れっこない)」のニワトリ印を残した ハイネマン家とエロッサー家 の話です。
1851年 — リーバイより2年早く
ゴールドラッシュのサンフランシスコには、「掘る人に物を売る側」の商人たちが集まりました(リーバイ・ストラウスの回 で書いたとおりです)。レナード・D・ハイネマン は、ロンドンとマンチェスターで商売を覚えたのち、1851年、サンフランシスコに渡ります。義理の兄弟モリス・ピックと組んだ「ハイネマン・ピック商会」は、英・仏・独のプリント地、リネン、絹、ビロード、手袋、毛布まで扱う輸入卸でした。金鉱の時代 のサンフランシスコで、布はいくらでも要る商品です。ピックは1853年にメルボルンへ戻りました ── くしくも、リーバイ・ストラウスがこの町に店を開いた年です。
ギラデリ・スクエアの場所に、毛織物工場を建てた
輸入だけでは布が足りません。ハイネマン・ピック商会は、サンフランシスコ湾を見下ろすブラック・ポイントに 「パイオニア・ウーレン・ミルズ」── カリフォルニア最初の毛織物工場 を建て、1858年に操業を始めます(建設を1856年とする資料もあります)。並の毛布と無地のフランネルから始まった工場は、1861年に火事で焼け、建て直されました。
この工場の跡地には、のちにギラデリのチョコレート工場が建ちます。いまサンフランシスコ観光の定番になっている ギラデリ・スクエアの場所で、最初に煙を上げていたのは、この会社の毛織物工場 でした。
1861年 — 165日の船旅
同じ1861年、レナードはメルボルンにいた 弟のハーマン を呼び寄せます。船旅は 165日 ── 半年近くかけて太平洋を渡ってきた弟に、レナードはやがてサンフランシスコの店を任せ、自分はヨーロッパに戻って買い付け役に回りました。以後、会社を実際に率いたのはハーマン です。
1863年10月 — 15歳の店員
1863年、サンフランシスコの乾物店で働く15歳の店員の想像図(AI生成イメージ・銅版画調。アーサー・エロッサー本人の写真は見つかっておらず、顔は似せていない)
その2年後、店にひとりの少年が入ります。プロイセン生まれ、15歳のアーサー・エロッサー です。入社の月をなぜはっきり書けるかというと、本人が59年後に書き残しているから です ──
私がハイネマン商会で働き始めたのは、1863年10月のことです。(I entered the employ of Heynemann & Co., in October, 1863.)
1922年の暮れ、74歳の社長アーサーが年次総会に寄せた手紙 の一節です。15歳の入社の月を、74歳が覚えている ── この一行に、この人の70年が要約されています。
1871年には、ハーマンの長男 マンフレッド が16歳で入社。アーサーとマンフレッドの二人は、アリゾナ、モンタナ、ニューメキシコ、さらにメキシコへと商圏を広げていきました。会社はやがて輸入卸から、自前の作業着の製造 へ踏み出します(始めた時期は1870年代初めから1890年ごろまで、資料で割れています)。
「破れっこない」と、ズボンを引き裂く男
看板の 「Can't Bust 'Em」 の初使用は、商標登録の書類では 1876年(1878年、1890年代、1892年ごろとする資料もあります)。名前の由来として、1955年の社史はこんな話を伝えています ── 1890年代、マンフレッドの家に招かれた友人が製品を見て「ほう、これは壊せそうにないね(you can't break them)」と言い、それを聞いていた マンフレッドの妻が「それならアメリカ風に、Can't Bust 'Em はどう?」と返した。社史に残る家族の記憶で、ほかの資料には出てこない話です。
おなじみの ニワトリの商標は、最初からではありません。1909年の価格表に刷られていた商標は、ズボンを両手で引き裂こうとしている男の絵。ニワトリが現れるのは 1912年の価格表から で、組合ラベル付きでした。1909年は引き裂く男の絵、1912年からはニワトリ、という順番です。
1905年 — 跡取りの死と、婿の名前
1905年、会社は法人化します。その直後、ハーマンの長男で跡取りだったマンフレッドが亡くなりました。会社を背負ったのは、15歳の店員から番頭格になり、ハーマンの娘と結婚して創業家の婿になっていたアーサー です。57歳。アーサーは息子の ハーバート を会社に入れ、立て直しに当たりました。
そして1907年ごろ、社名が変わります ── 「エロッサー・ハイネマン商会(Eloesser-Heynemann Co.)」。15歳で入った店員の名前が、40年あまりかけて、創業家の名前の前に来ました。跡取りを亡くした創業家が、婿のアーサーに会社を託したことが、この順番に表れています。
焼けた本社は、どこに建て直したのか?
その移り変わりの最中に、冒頭の写真の朝が来ます。1906年4月18日の地震と火事で、社屋は焼け落ちました。会社は 焼けたのと同じ場所、バッテリー街77〜87番地 に販売室つきの本社を建て直します。この建物はいまも残っています。
70年目の店員
アーサーの晩年も、会社と一緒でした。1932年12月1日には、ノイシュタッター兄弟社から「Boss of the Road」の商標と在庫を買い取り、サンフランシスコの作業着の名前がもうひとつ、この会社に加わります。1933年には本社をミッション街へ移し ── その年の11月、アーサー・エロッサーは社長在任のまま亡くなりました。15歳の入社から、70年 です。社長は息子のハーバートが継ぎました。
横道: フリーダ・カーロの主治医
アーサーの息子 レオ・エロッサー(1881-1976)は、服ではなく医学の道へ進みました。ドイツで学んだ胸部外科の先駆者で、スタンフォード医学部で教え、貧しい人の診療で知られた人です。1926年に画家ディエゴ・リベラと知り合い、その妻 フリーダ・カーロの主治医であり、生涯の友 になりました。カーロは1931年、レオの肖像画を描いています。スペイン内戦では国際旅団の移動外科病院を率い、晩年は中国で国連児童基金(UNICEF)の仕事に携わって、農村の助産師のための手引きを書きました。
ニワトリ印の作業着を売った店員の息子が、20世紀の美術史と医学史の脇役として顔を出す ── 一家の歴史は、ときどきこういう枝を伸ばします。
1946年 — 95年目の売却
1946年8月、ハーバートは会社を H.D.リー社 へ売りました。1851年の創業から 95年 ── 二つの家族がリレーした会社は、ここで同族の手を離れます。それでも社名とニワトリはすぐには消えず、社名入りの封筒は 1961年の消印 まで確認されています。
いま、私たちが手に取る一着の意味
古着屋でニワトリ印の「CAN'T BUST 'EM」に出会うとき、そのタグの後ろにあるのは、165日の船旅で来た弟と、15歳で入って70年勤めた店員と、跡取りを亡くした家が婿に託した95年です。リーバイより2年早くこの町で始まり、リーの傘の下で名前を終えた ── サンフランシスコの作業着の歴史の、もうひとつの本流です。
次回の創業者伝も、リクエストがあればコメント欄へどうぞ。
参考文献
- e-workers「Eloesser-Heynemann Co.」(カリフォルニア歴史協会・バンクロフト図書館所蔵の1919年会社概要・1926年75周年誌・1955年社史・1922年のアーサーの手紙・1909/1912/1932-33年の価格表の内容は、この研究による)
- Wikipedia「Leo Eloesser」(J. Gordon Scannell, Annals of Surgery 198(2), 1983 ほか)
- Stanford Medicine Magazine「Leo and Frida — The doctor and the artist」(2013)
- ギラデリ・スクエアの国家歴史登録財資料(パイオニア・ウーレン・ミルズ 1858〜1889)
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店主がいま確認できる範囲で書いています。実物を手に取るたびに「あれ、話が違うぞ」と気づくことがあって、そのたび書き直しています。間違いは、まだ残っているはずです。
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