
ハミルトン・カーハート(1855-1937)。1900年刊の人物名鑑『Men of Progress』に載った肖像(1900年公刊/Wikimedia Commons経由/パブリックドメイン)
創業者伝 第3回:ハミルトン・カーハート — 屋根裏のミシン2台から始まった48年
1889年、34歳のハミルトン・カーハートはデトロイトの屋根裏でミシン2台からオーバーオール作りを始めました。鉄道員への聞き取り、union madeのラベル、大恐慌、そして妻と同じ週の死 ── 「正直な1ドル」を掲げた男の48年です。
デトロイトという街と Carhartt の話 は Vintage History 第9回で書きました。ミシガンチョアコートなど服の各論 は別の記事に譲ります。創業者伝の第3回は、その真ん中にいた人 ── ハミルトン・カーハート の一生です。
「ハム」と呼ばれた商人
ハミルトン・カーハートは 1855年、ニューヨーク州メイスドン・ロックス に生まれました。父ジョージ・Wは医師、母レファ・ジェーンはハミルトンの幼いころに亡くなっています ── のちに次男へ付けた「ワイリー」は、その母の旧姓です。家系の記録に残るミドルネームは ブレーキマン(Brakeman) ── 鉄道の制動手と同じ綴りです。のちに鉄道員の作業着で身を立てる男の名前としては、出来すぎなくらいの偶然です。周囲からは気さくに 「ハム」 と呼ばれた人だったと伝わります。1881年12月21日にアネット・ウェリングと結婚 し、ハミルトンJr.、ワイリー、マーガレットの3人の子を育てました。紳士用品を卸し、東部の商社の代理人として中西部を回る商いを経て、たどり着いたのはデトロイト。当時はまだ自動車の街ではなく、鉄道と工業の交差点 でした。
1900年刊の人物名鑑『Men of Progress: Representative Michigan Men』に載ったハミルトン・カーハートの肖像(1900年公刊/Wikimedia Commons経由/パブリックドメイン)
1889年、34歳。 彼は小さな屋根裏(ロフト)で、既製の紳士用品からの転身を図ります。設備は ミシン2台と、2分の1馬力の電気モーター。従業員は5人。作るのは オーバーオール ── のちに130年続く会社の、これが全部でした。
現場に聞く、という発明
創業当初の販売は振るいませんでした。転機になったのは、商品ではなく 方法 です。カーハートは 鉄道員たちに直接会って、何が欲しいかを聞いて回った のです。
いまでいう「ユーザーヒアリング」を、19世紀の終わりにやっていたわけです。返ってきた答えは、汽車の仕事に耐える、丈夫で長持ちする一着でした。こうして生まれた鉄道員向けのビブオーバーオールが、会社の土台になります(同じ市場では HEADLIGHT や FINCK'S といったデトロイトの同業たち と競い合いました。カーハートは、その競争の生き残りです)。
1943年3月、サンタフェ鉄道コーウィズ操車場。発車前に懐中時計を見比べる車掌と機関士。ひとりはデニムのビブオーバーオールにデニムジャケット ── カーハートが聞いて回った「現場」の仕事着そのもの(Jack Delano 撮影・OWI コダクローム/米国議会図書館所蔵/パブリックドメイン)
もうひとつの発明が ラベル です。カーハートは 「union made(組合員製)」のラベル を掲げました。買い手である労働者たちへの、これ以上ない名刺です(ユニオンメイドを品質保証として掲げる文化には、SWEET-ORR という先駆者 がいました)。掲げた標語は ──
「Honest value for an honest dollar ── 正直な1ドルに、正直な価値を。」
労働者から1ドル受け取るなら、1ドルぶんの誠実さを返す。カーハートという会社の人格は、この一行にほぼ全部入っています。1900年刊の人物名鑑に載った会社の告知文も、同じ声で書かれています ──「儲けるためだけに始めた仕事ではない。まず正しく、誠実であること。儲けは、それができたうえでの話だ」。このころ従業員は600人を超え、名鑑は職場を「大きな家族の集まりのよう」と評しました。
拡大、そして大恐慌
ハミルトン・カーハートの生涯年表。1855年生まれ、1889年デトロイトでの創業、鉄道員への聞き取り、1937年の死去まで(Kei's Vintage 独自作成)
労組機関誌『The Bridgemen's Magazine』(1905〜06年刊)に載った広告に描かれた本社工場の全景。デトロイト、ミシガン・アベニュー479番地 ── 2本の塔と煙突、手前の通りを馬車が行く(1905〜06年公刊の広告より/パブリックドメイン)
この本社工場は1890年代はじめに建ち、約40年にわたってカーハートの心臓部 であり続けました(1932年にずっと小さな建物へ移り、空き家になった工場は1940年に取り壊されました ── 建物は残らず、服だけが残りました)。1905年にはこのコークタウンの工場を拡張し、1910年までにジョージアとサウスカロライナへ自社の綿紡績工場 を持ちます。生地を自分で織り、デトロイト・アトランタ・ダラス・サンフランシスコで縫い、さらに国境を越えてオンタリオ州ウォーカービル、バンクーバー、英国リバプールへ ── 屋根裏から20年ほどで、生地から縫製まで抱える国際企業になりました。第一次大戦では 7つの工場を軍服の生産に充てて政府に差し出した と会社の沿革は伝えます。工場は一時 17 を数えたといわれます。
働き手への投資でも知られました。組合員による製造、8時間労働、利益の分配。南部の綿工場の町には夜学校や託児所、プールまで備えた工場村を作ったと、地元の郷土史家は伝えています。union made のラベルは、看板であると同時に実態でした。
稼いだ金の使い方にも、この人らしさが出ています。綿の産地サウスカロライナ州ロックヒルでは、カトーバ川を見下ろす1,000エーカーを超える土地に、夏の別荘と農園 を構えました。ロックヒルには、いまも彼の名を刻んだ史跡標識が立っています。デトロイトの工場主が、自社の綿が育つ南部の町にも根を張っていました。しかし 1920年代の綿不況と、1929年からの大恐慌(Vintage History 第2回の世界です)は会社を直撃します。工場はデトロイト・アトランタ・ダラスの3つ まで減りました。ここで会社を守り抜いたのが家族です。事業は縮小しながらも、ハミルトンと次男ワイリーの手で持ちこたえ、1959年からはワイリーの娘婿ロバート・ヴァラーデが率いて、現在まで 同族経営のまま 続いています。
1910年の業界名鑑に載ったカーハート自動車の広告。「1911年型で最初に名乗りを上げたのはこの車」の惹句に、ハートの紋章へ車を収めたマークまで作っている(1910年公刊/Wikimedia Commons経由/パブリックドメイン)
横道: カーハートは、自動車も作っていた
デトロイトの服屋は、一度だけ本業の外に出ています。1910年4月、カーハート自動車会社を設立 ── 社長はハミルトン、副社長兼総支配人は長男のハミルトンJr.でした。「カーハート・フォー」の価格は 2,250ドル。広告は「この価格帯のどの車より25%多くの価値を」とうたいましたが、新しい自動車会社が次々に生まれては消えるデトロイトで足場を作れず、1912年ごろに撤退 します。作業着で築いた名前を自動車に貸した2年間 ── 結果は失敗でしたが、自動車の街の熱に服屋まで巻き込まれた時代の記録として、よくできた挫折だと思います。
1937年 — 妻と同じ週に
結末は突然でした。1937年5月10日、グロスポイントでの自動車事故。同乗していた 妻のアネットはその日のうちに亡くなり、ハミルトン自身も数日のうちに後を追いました(没日は5月12日とする記録と13日とするものがあります)。結婚から55年 ── 最初の一着を縫ったと伝わる妻と、最後まで同じ車に乗っていました。二人はデトロイト南西のウッドミア墓地に眠っています。享年は81(82と記す資料もあります)。48年前に屋根裏でミシン2台から始めた会社は、そのとき既にアメリカの労働着の代名詞になっており、社長の座は 次男のワイリー が継ぎました。
いま、私たちが手に取る一着の意味
古いカーハートのハートに機関車のロゴ、チェンジボタン、「union made」の文字 ── それらは装飾ではなく、「現場に聞き、組合と組み、正直に売る」という一人の商人の経営方針の物言わぬ残骸 です。デトロイトの100年 と一緒に読むと、一着のカバーオールが街と人の両方を語り始めます。
1980/90s Carhartt ミシガンチョアコート(当店で撮影した個体)。ダック生地にコーデュロイの襟、胸のロゴ ── 屋根裏のミシン2台から約100年後の姿
写真は 1980/90s の Carhartt ミシガンチョアコート。
創業者伝は今後も続けます。候補は C.C.フィルソン(金鉱掘りに装備を売った男)、アーヴィング・ショット(ライダースにジッパーを付けた男)など ── リクエストもコメント欄へどうぞ。
参考文献
- Historic Detroit: Carhartt factory
- Encyclopedia.com: Carhartt Inc.
- Journal of Antiques: Carhartt — The Original Workwear Brand
- Carhartt(英語版Wikipedia)
- Men of Progress: Representative Michigan Men(1900年刊・p.526。肖像と経歴・会社告知文の出典)
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