
1909年の絵葉書に残るグリーンズボロのサウス・エルム街。ハドソンが最初の作業場を構え、のちにブルーベルの本社と工場が立った通り(1909年の絵葉書/ノースカロライナ州立公文書館所蔵・既知の著作権制限なし)
創業者伝 第7回:C.C.ハドソン — 日給25セントのボタン付けから、ブルーベルを興した男
ラングラーの前身ブルーベルを興したC.C.ハドソンの最初の仕事は、オーバーオールのボタン付け、日給25セントでした。勤め先の工場が閉じたときのミシンの買い取りから始まった創業、「死ぬまで借りたままにしておきたい」と書いた37ドル58セントの借金、病気による売却 ── そして1947年のラングラー誕生を見ないまま亡くなった、一人の創業者の一生です。
古着屋のデニムの棚で、Wrangler は Levi's・Lee と並ぶ定番の一角です。後ろポケットのWステッチに、ロデオ由来のディテール ── ただ、このブランドの元になった会社を興した人の名前は、タグのどこにもありません(ロデオとカウボーイ神話の記事 で、1947年にラングラーのジーンズが生まれるまでのブルーベル社の話を書きました)。創業者伝の第7回は、そのブルーベルを興した チャールズ・クランプ・ハドソン(C.C.ハドソン) の一生です。ラングラーの名が世界に知られるとき、本人はもうこの世にいません。
テネシーの農場から — 1897年
ハドソンは 1877年7月15日、テネシー州ウィリアムソン郡 に生まれました。父ウィリアム、母アニー。1897年、20歳のとき、弟のホーマーと二人でスプリングヒルの農場を出て、ノースカロライナ州グリーンズボロへ向かいます。
日給25セント — ボタン付けから監督へ
グリーンズボロで得た職は、オーバーオール工場の ボタン付け、日給25セント でした。そこから会社を興すまでの7年ほどで、ボタン付けの青年は 工場の監督(スーパーインテンデント) まで上がります。1902年には デイジー・ディーン・ハント と結婚しました。
日給25セントでボタンを付けていたころの想像図(AI生成イメージ・銅版画調。本人の写真は博物館に1枚残るが公開されていないため、顔は似せていない)
1904年 — 工場が閉じたとき、何を買ったのか?
やがて、その工場が閉鎖されます。20代後半のハドソンが取った行動は、次の職探しではありませんでした。閉鎖した工場からミシンを何台か買い取り、1904年、弟ホーマーや仲間とともにハドソン・オーバーオール社を設立した のです。最初の作業場は、サウス・エルム街にあった コー兄弟の食料品店の2階。手狭になると、アーリントン街の 使われていない教会の建物 へ移りました。食料品店の2階から、空き教会へ ── 小さな船出でした。
1903年のサウス・エルム街。ハドソンが最初の作業場を構えた通り(『Progressive Greensboro』1903年刊より/パブリックドメイン)
ブルーベル — 1919年
1919年、ハドソン兄弟は共同出資者の持ち分を買い取り、社名をブルーベル・オーバーオール社に改めます。本拠はサウス・エルム街とリー街の北西角へ移り、1921年には同じ区画に、仕切りの少ない広い作業場を持つ当時最新の工場 を建てました(1924年と1927年に増築。この建物は2020年、米国の国家歴史登録財になっています)。
なぜ37ドル58セントの借金を、返さなかったのか?
グリーンズボロ歴史博物館に残る一家の文書の中に、ハドソンが生命保険会社に宛てた一通の手紙があります。生命保険会社からの 37ドル58セントの借入 を、返さずに残している理由を説明した手紙です。いわく、この借入は「幸せで豊かな人生の出発点をくれた(gave me a start to a happy and prosperous life)」ものであり、「消したくない歴史の一片として持ち続けてきた(held it as a bit of history which I did not care to erase)」ので、死ぬまでこのままにしておきたい ──。
手紙の日付も、借入がいつのものだったのかも、文書の目録には書かれていません。創業の元手だったのかどうかも分かりません。分かるのは、日給25セントから始めた人が、小さな借金ひとつを、返済ではなく 人生の記念碑 にしていたことです。
1926年 — 「ボニー・ブルーベル、ビッグ・ベンに嫁ぐ」
1923年、40代半ばのハドソンは体を悪くし、会社を手放したいと考えるようになります。それを知ったのが、同業ジェリコ衣料(のちのビッグ・ベン社)の社長で友人の ロバート・W・ベイカー でした。話はまとまり、1926年1月1日、ブルーベルはケンタッキー州ミドルズボロのビッグ・ベン社に買い取られます(社史には合併と書くものもあります)。本社はグリーンズボロのまま、社名もブルーベルが残りました。当時の新聞は、この取引を結婚になぞらえて書いています ──「ボニー・ブルーベル、ミドルズボロのビッグ・ベンに嫁ぐ」。
会社を売る前後を通じて、ハドソンは町の人であり続けました。不動産会社ハドソン社の社長、セントラル産業銀行の頭取、商工会議所の会頭、全米衣料製造業協会の会長 ── 日給25セントから始めた人が、グリーンズボロの名士になっていました。1930年5月、妻デイジーへの手紙には、発売から4か月のキャデラックV16を贈ると書いています ── グリーンズボロではまだ誰も持っていない車だ、と書き添えて。
1937年 — ラングラーの名を見ずに
1937年12月30日、長い療養ののち、ハドソンは60歳で亡くなります。死の直後から翌1938年にかけて、妻デイジーのもとには、ノースカロライナ児童ホーム協会やグリーンズボロ大学、商工会議所から弔意の手紙が届きました。
ブルーベルが ケイシー・ジョーンズ社を買収し、ほとんど使われていなかった「Wrangler」の商標を手に入れる のは、その6年後、戦時中の1943年です。テキサスの仕立て屋ロデオ・ベンの設計でラングラーのジーンズ(11MW)が生まれる のは1947年。本人の死から10年後に生まれたその名前は、のちに世界で指折りのジーンズになります。第二次大戦中のグリーンズボロ工場では約1,600人 ── 大半が女性 ── が働き、軍向けに2,400万着以上を縫ったと報じられています。1986年にはVFコーポレーションがブルーベルを買収し、サウス・エルム街の工場の建物はいま、オフィスとして使われています。
横道: のみの市のスーツケース
ハドソンの手紙や遺産の書類が今日まで読めるのには、少し不思議な経緯があります。一家の書類は、のみの市でスーツケースごと売られていた のです。それを買った人が、のちにグリーンズボロ歴史博物館へ寄贈しました。スーツケースに付いていた頭文字は「D.D.H.」── 長女ドロシーのものでした。37ドル58セントの手紙が残ったのは、この偶然のおかげです。
いま、私たちが手に取る一着の意味
古いラングラーやジャケットのタグに「BLUE BELL」の文字を見つけたら、それは日給25セントのボタン付けから始まった会社の名前です。閉じた勤め先から買い取ったミシン、食料品店の2階と空き教会の作業場、消したくなかった37ドル58セント ── 一本のジーンズの後ろには、ラングラーの誕生を見ないまま逝った創業者の、静かな一生があります。
次回の創業者伝も、リクエストがあればコメント欄へどうぞ。
参考文献
- Greensboro History Museum Archives「Hudson/Fry Family Papers」(MSS. COLL. #195・目録2012年)
- 『Progressive Greensboro: The Gate City of North Carolina』(1903)
- North Carolina Department of Natural and Cultural Resources「National Register Adds Five North Carolina Historic Places」(2020-12-29。ブルーベル工場の国家歴史登録財登録)
- Liz Warren「Former Blue Bell Plant Added to National Register of Historic Places」Sourcing Journal/WWD(2021-01-04。大戦中の約1,600人・2,400万着)
- Gateway Greensboro「The Gateway: A History Worth Preserving」
- Wrangler 公式: Our History
- Wrangler (brand)(英語版Wikipedia)
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