
1902年、ニューヨーク・ロウアーイーストサイドのヘスター街。手押し車の市と縫製の内職が折り重なるこの界隈の地下室から、ショット兄弟は始まった(B・J・フォークが1902年に著作権登録した写真/米国議会図書館所蔵/パブリックドメイン)
創業者伝 第5回:アーヴィング・ショット — 地下室のレインコート屋が、5ドル50セントの革ジャンを作るまで
ロウアーイーストサイドの地下室でレインコートを縫っていた兄弟が、1928年、ハーレーの店先に5ドル50セントの革ジャケットを置きます。のちに世界中で「パーフェクト」と呼ばれる一着です。90代まで背広にネクタイで工場の床に立った創業者アーヴィング・ショットの一生を、家族の証言でたどります。
革ジャンの棚の「ダブルライダース」── 斜めに走るジッパーと、風を止める打ち合わせ。その原型として知られるのが、Schott の「パーフェクト」です。いまも現行品が作られ、古着では年代ごとに表情の違いが楽しまれています。生まれたのは、ロウアーイーストサイドの地下の作業場でした(ニューヨークの服飾街の100年 で書いた、いくつものブランドを生んだ場所です)。創業者伝の第5回は、その地下室から出てきた アーヴィング・ショット の一生です。
地下室の兄弟 — 1913年
アーヴィング・ショットは 1891年か92年の生まれ(資料により割れます)。ロシアから渡ってきたユダヤ系の家に育ちました(本人が移民だったのか、移民の両親の米国生まれの息子なのかも、資料によって書き方が割れています)。最初の仕事は 型紙職人 です。
1913年、兄弟のジャックと「ショット・ブラザーズ」を創業。場所はロウアーイーストサイドの、安アパートの地下の作業場でした。のちの店と工場は イースト・ブロードウェイ96番地 にあり、息子のメルはそこで父の仕事を見て育ちます。作っていたのは革ジャンではなく、毛裏のレインコート。売り方は、行商人が一軒一軒まわる戸別販売です。曾孫のジェイソン・ショットは「曾祖父は、ロウアーイーストサイドの店の下の地下工場で、毛裏のレインコートを作るところから始めた」と語っています。
バイクがやってきた — 1920年代
転機は取引先でした。1920年、バイク用品の大手卸ベック(ショット側の資料ではハーレーの卸)の通販カタログ向けに外套を作り始めます。会社は 1925年に「業界で初めてジャケットにジッパーを付けた」 と伝えています。前を全開にできる分離式ファスナーの特許出願は1927年 ── ジッパーが、まだ「新しい部品」だった時代です。
看板の名前「パーフェクト」の由来は、家族の証言がはっきりしています。ジェイソンいわく「お気に入りの葉巻の形(カット)から名付けた」── パーフェクトとは、両端のすぼまった葉巻の形の名前です。ただし 名付けの年は、1915年とも、1928年とも、1928年の少しあととも書かれ、会社自身の資料のなかでも割れています。
1928年 — 5ドル50セント
1928年、斜めにジッパーを走らせた革のバイク用ジャケット が、ロングアイランドのハーレー販売店に並びます。値段は 5ドル50セント。FIT(ニューヨーク州立ファッション工科大学)の美術館は、これをハーレーの卸の依頼で1928年に作られたものとし、「最初の黒革のバイカージャケットと広く見なされている」と紹介しています(依頼主をベックと書く会社側の資料もあります)。
前を斜めに閉じるのは、前傾姿勢で風を入れないための作りです。地下室のレインコート屋が15年かけて辿り着いたのは、雨具と同じ発想 ── 「風雨から体を守る外皮」── をバイクの速度に合わせて作り直すこと でした。
戦争中、ショットは何を作っていた?
1943年10月、北アフリカ・シチリア・イタリアから帰還した米陸軍航空軍のパイロットたち。背中に「ヤンキー・ドゥードル号・50回出撃」のペイント ── 当時の革の飛行服の実物(この個体がどの会社製かは写真からは分かりません)(米陸軍撮影・NARA 336-H-06-P4909/パブリックドメイン)
第二次大戦が始まると、会社の資料によれば ショットは民生品の生産を止め、陸軍航空隊の革と羊革の飛行服、海軍のメルトンのピーコートを納めます(A-2からM-65までの米軍ジャケットの系譜 の、あの世界です)。
同じ戦争に、家からも一人出ています。息子のメル・ショットは18歳で海兵隊に入り、1945年2月、硫黄島で負傷 しました。パープルハート章を受け、1年以上の入院ののち、1948年にニューヨーク大学を出て家業へ ── 以後1994年まで、半世紀近くを会社で過ごします。家族は「葉巻をくわえて機械の下にもぐっているときがいちばん幸せそうだった」と語っています。
『乱暴者』で、何が起きたのか?
1953年の映画『乱暴者』で、マーロン・ブランドが革ジャケットを着てスクリーンに現れます。ここから革ジャンが「反抗の記号」になっていく話は有名ですが、ブランドが着た一着がショット製だったかどうかは、実は決着していません(よく似た他社製とする資料もあります)。会社の沿革は「映画のあと、学区が着用を禁止して売上が落ちた」と伝えますが、具体的にどこの学区かを示す資料も見つかっていません。
数字で確かなのはこうです。1950年代半ば、パーフェクトの小売価格は 49ドル。1928年の5ドル50セントから、四半世紀で約9倍。労働者の雨具から始まった会社の製品が、「若者が憧れる一着」の値段になっていました。肩に星の鋲を打った 613型 ── 通称ワンスター が出るのもこの前後(1940年代末)です。
90代の会長 — Y.C.D.B.S.O.Y.A.
アーヴィング・ショット本人の言葉は残っていませんが、働く姿は曾孫が語り残しています。
曾祖父は毎日、きちんと背広にネクタイで出社して、90代まで工場の床に立って生産を見ていた。ネクタイピンには「Y.C.D.B.S.O.Y.A.」の文字 ── You Can't Do Business Sitting On Your Ass(座ってちゃ、商売はできない) の頭文字です。(ジェイソン・ショット)
1986年、94歳のアーヴィングは会長兼CEOのまま、社長の座を息子メルに譲ります。亡くなった年は資料が割れていて、1990年とするものと、「100歳の誕生日を数か月後に控えた」1992年とするものがあります。妻ローズの名前は、1997年に始まった初の女性向けライン「ローズ・ショット・コレクション」に残りました。同じ1997年には、社長だった孫のマイケルががんで早世しています ── 会社はいまも4代目の家族経営で、ジェイソンによれば「工場は1940年代からニュージャージーの中で場所を移してきたが、機械も材料も型紙もずっと同じ」です。
いま、私たちが手に取る一着の意味
古いパーフェクトの斜めのジッパーに手をかけるとき、そこにあるのは「反抗の記号」の前の、雨具屋の実用の発想 です。地下室のレインコートから、5ドル50セントのバイク用ジャケット、硫黄島から帰って家業を継いだ息子、90代まで工場に立った創業者のネクタイピンまで ── 革ジャン1着の背後の100年は、派手な伝説よりも、地道な家族経営の話でできています。
参考文献
- Schott Brothers, Inc. の項(社史事典 International Directory of Company Histories vol.67・Reference for Business 収録)
- InsideHook: Schott の110年と家族の証言(2024)
- Cool Hunting: Jason Schott インタビュー(2014)
- Vice: The First Wild One(2013)
- FIT美術館企画展「Beyond Rebellion: Fashioning the Biker Jacket」(2014)
- Schott NYC(英語版Wikipedia)/Perfecto motorcycle jacket(同)
- MR Magazine: Mel Schott 死亡記事(2019)
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