創業者伝 第8回:リチャード・シアーズとアルバ・ローバック — 受け取りを断られた時計の箱から、全米に届いたカタログへ

1897年春のシアーズ・ローバックのカタログ No.104「コンシューマーズ・ガイド」の表紙。地球儀に「われらの商いは世界に届く」(Sears, Roebuck and Co. 1897年刊/archive.org 所蔵スキャン/パブリックドメイン)

HERCULES創業者伝

創業者伝 第8回:リチャード・シアーズとアルバ・ローバック — 受け取りを断られた時計の箱から、全米に届いたカタログへ

1886年、ミネソタの小さな駅に、宝石商が受け取らなかった時計の箱が届きます。駅員だった22歳のシアーズはその箱で商売を始め、翌年、新聞の小さな求人広告で時計職人ローバックを雇いました。カタログの帝国を作って50歳で逝った男と、社名に名前を残しながら億万長者にはならず、晩年に給料で古巣へ戻った職人 ── 対照的な二人の一生です。

By Kei's Vintage

古着屋の棚では、HERCULES の作業着や Pilgrim のシャツをよく見かけます ── どちらも Sears のプライベートブランドだった名前です。タグの社名の後ろにあったのは、カタログで全米に物を届けた帝国です(シアーズの作業着ブランド HERCULES の記事 で書きました)。創業者伝の第8回は、その社名になった二人 ── リチャード・シアーズ と アルバ・ローバック の一生です。

駅の電信係と、独学の時計職人

リチャード・ウォレン・シアーズは 1863年12月7日、ミネソタ州スチュワートヴィル に生まれました。父ジェームズは鍛冶屋で荷車職人、町議も務めた働き者でしたが、家畜農場の事業に手を出して 全財産を失います(会社の資料は約5万ドルと伝えます)。リチャードは若くして家計を支え、10代で鉄道の電信係になり、やがて ノースレッドウッドの小さな駅を預かる駅員 になりました。少年時代を過ごしたスプリングヴァレーでの友人には、『大草原の小さな家』のローラの夫になるアルマンゾ・ワイルダーがいた、と地元の博物館は伝えています。

いっぽうアルバ・カーティス・ローバックは 1864年1月9日、インディアナ州ラファイエット の生まれ。12歳で父を亡くし、母が農場を切り盛りする家で育って、16歳で独学の時計職人 になりました。二人は、まだ出会っていません。

1886年 — 受け取りを断られた時計の箱

時計の箱を開ける若い駅員の想像図(AI生成イメージ・銅版画調。シアーズ本人のPD写真は確かなものが見つからず、顔は似せていない)時計の箱を開ける若い駅員の想像図(AI生成イメージ・銅版画調。シアーズ本人のPD写真は確かなものが見つからず、顔は似せていない)

ノースレッドウッドの駅に、隣町レッドウッドフォールズの宝石商に宛てた 金張りの時計の箱 が届きます。宝石商は、運賃が未払いだったため受け取りませんでした(企業史事典 Gale による)。

駅員のシアーズは、この箱に別の目を向けました。問屋と話をつけ、沿線の駅員仲間に1個14ドルで売った のです。鉄道員は毎日時刻と向き合う、時計の確かな買い手でした。この商売は当たり、シアーズは駅を辞め、ミネアポリスで R.W. シアーズ時計会社を開きます。22歳でした。全米一の小売業の始まりは、宝石商が受け取らなかった荷物でした。宛先の店が受け取らない荷物を、駅員が問屋と話をつけて売りさばけた時代です。

時計商売の信条として、シアーズが1892年に残した言葉があります ──

良い時計を買ってもらえば、必ず満足してもらえる。そしてうちの値段なら、その良い時計が、次の良い時計を売ってくれる。うちの標語はこれだ ──「時計が、時計を売る」。(If you buy a good watch you will always be satisfied, and at our prices a good watch will influence the sale of another good watch; and that's our motto: "Make a Watch Sell a Watch.")── 1892年(シアーズ社の資料室の記録)

1887年 — 小さな求人広告

シカゴへ移ったシアーズは、新聞に小さな求人広告を出します。

求む: 時計職人。身元照会できて、道具を持参できる人。年齢・経験・希望給を書いて、デイリー・ニュース T39 へ。(シカゴ・デイリー・ニュース、1887年)

応じたのが、インディアナ州ハモンドの宝石店で働いていた23歳のローバックでした。1887年4月1日に応募し、2日後にシアーズから採用の返事 が来ます。のちに全米一の小売業の社名になる出会いは、新聞の小さな求人広告だったわけです。

1888年1月、インディアナ州の新聞に載った R.W. シアーズ時計会社の広告。「5ドル87セント」を紙面のあちこちで繰り返す、シアーズの広告の原型(Winchester Journal 1888年1月5日付/パブリックドメイン)1888年1月、インディアナ州の新聞に載った R.W. シアーズ時計会社の広告。「5ドル87セント」を紙面のあちこちで繰り返す、シアーズの広告の原型(Winchester Journal 1888年1月5日付/パブリックドメイン)

1893年 — Sears, Roebuck and Co.

シアーズは1889年にいったん時計の会社を売り、銀行家になるつもりでアイオワへ向かった、と会社の年表は伝えています(売却の利益は7万2千ドル)。けれど商売に戻り、ローバックとの共同経営を経て、1893年、社名が Sears, Roebuck and Co. になりました。この年の売上は40万ドル超。2年後には75万ドルを超え、カタログは532ページになっています。

急成長は資金を食います。1895年、シアーズは会社の半分を7万5千ドルで、アーロン・ナスバウムと、のちに経営の柱となるユリウス・ローゼンワルドに売りました。同じ年、ローバックは体調を理由に、自分の持ち分を約2万ドルで手放します(2万5千ドルとする資料もあります)。ただし、会社を離れたわけではありません ── シアーズに頼まれて給料制で残り、時計・宝石・眼鏡、のちに蓄音機や映写機の部門を任されました。4年ほど働いてから映写機の会社を興し、その大口の客は古巣のシアーズ社でした。

カタログの帝国

1901年の小冊子より、表紙に「ザ・グレート・プライス・メーカー」と刷られたカタログ No.111 の絵。1,200ページ・約1.8キロの「ビッグブック」(Sears, Roebuck and Co.『Why we ask 50 cents for our catalogue』1901年刊/archive.org 所蔵スキャン/パブリックドメイン)1901年の小冊子より、表紙に「ザ・グレート・プライス・メーカー」と刷られたカタログ No.111 の絵。1,200ページ・約1.8キロの「ビッグブック」(Sears, Roebuck and Co.『Why we ask 50 cents for our catalogue』1901年刊/archive.org 所蔵スキャン/パブリックドメイン)

1,200ページ、重さ4ポンド(約1.8キロ)、10万品目。1901年の小冊子は、カタログ1冊に50セントを求める理由を説明しながら、こう書いています ──「隣の人が古いカタログを貸してくれるなら、50セント払って新しいのを取り寄せる必要はありません」。古い号でも注文を受け、値下がりした分は現金で返す。農村の台所に置かれた「ビッグブック」は、大恐慌の時代 まで続く通販の帝国の背骨になりました。

客の声も残っています ──「頼むからもう、ミシンを送らないでくれ。駅に行くたびに1台増えている。もう5台だ」(1900年ごろの苦情)。笑い話のようですが、注文殺到の混乱も、初期のシアーズの日常でした。

影もあります。初期のカタログの売り文句は誇大で、会社自身がのちに「空想的な文から、事実の文へ」変わったと振り返っています。効能のあやしい売薬(パテント・メディスン)を、1913年のカタログで「なぜ売薬をやめたのか」と告げてやめるまで載せ続けていた ことも、カタログの歴史の一部です。

それでも帝国は育ちました。1906年、シカゴ西部に 500万ドルの通販工場(床面積300万平方フィート超、当時世界最大級の事業用建物)。1908年には通販の組立住宅を売り始め、同じ年、作業着の商標 HERCULES が登録されます ── HERCULES のブランドガイド と 素材別ガイド に書いた、あのブランドです。

1908年 — 社長の椅子を降りる

HERCULES が生まれた1908年の11月、シアーズは社長を退きます(会長には残りました)。年商4,000万ドル。退任の理由としては、経営を任せたローゼンワルドとの方針の対立に加えて、妻アンナの病気と、本人の体調 が伝えられています。そして 1914年9月28日、ウィスコンシン州ウォキショーで、腎臓の病(ブライト病)のため50歳で亡くなりました。ニューヨーク・タイムズの死亡記事の見出しは「リチャード・W・シアーズ死す。シアーズ・ローバック社の創業者。鉄道員から身を起こす」。

社名に名前が残った職人は、なぜ億万長者にならなかった?

ローバックのその後は、対照的に長い道のりです。映写機の次はタイプライター会社の社長(1909〜24年)。そして 1929年の大暴落で大きな損を出し、1933年、69歳で古巣のシアーズ社に、給料をもらう立場で戻りました。仕事は社史の原稿書き ── と、もうひとつ。1934年9月、店長に頼まれて店に顔を出すと大入りになり、以後数年、「生きた看板」として全米の店を回りました。持ち分を手放した損を、公の場で一度も悔やまなかった、と会社の資料は伝えています。同じ1934年の言葉が、会社の資料室に残っています ──

改良と新しい発明によって、品質の優位を保ち続けること。それが私たちの変わらぬ願いだった。(It was our constant desire to maintain our margin of superiority by means of improvements and new inventions.)── 1934年(シアーズ社の資料室の記録)

1948年6月18日、エヴァンストンの娘の家で死去。84歳。シアーズより34年長く生きました。社名に名前が残った職人は、億万長者にはなりませんでした。 代わりに、自分の名前の付いた店の開店に立って客に迎えられる、そういう晩年でした。

いま、私たちが手に取る一着の意味

古着屋の棚で HERCULES のタグに出会うとき、その後ろにあるのは、受け取りを断られた時計の箱と、3行の求人広告と、農村の台所のビッグブックです。駅員と時計職人 ── 服の人ではなかった二人が作った「カタログで届ける」仕組みが、のちに大恐慌の時代の労働者にまで作業着を届けました。一着の作業着の背景には、小売の仕組みそのものを作り替えた二人の、対照的な一生があります。

次回の創業者伝も、リクエストがあればコメント欄へどうぞ。

参考文献

この記事は、まだ途中です

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