
1916年の記録映画より、ハワイの農園で働く日系とみられる男性(Ford Educational Library・米国国立公文書館所蔵/パブリックドメイン)
創業者伝 第6回:エラリー・チュンと武蔵屋の宮本家 — 「アロハシャツ」の名を刷った店と、権利にした店
「アロハシャツ」という名前を最初に新聞に刷ったのは、ホノルルの川沿いにあった日系の店・武蔵屋でした。その名を商標にしたのは、同じ角の近くで育った中国系の青年エラリー・チュン。官約移民の船で渡った初代、5年分の生地の山からシャツ屋になった2代目、そして1986年に「ほとんど知られないまま」亡くなった人と、州に顕彰された人 ── 2軒の店の一生を追います。
古着のアロハシャツの襟タグには、「Made in Hawaii」の文字が誇らしげに入っています。ところがその「アロハシャツ」という名前そのものに、商標として持ち主がいた時代があります(ハワイ準州と州昇格の記事 で「最初に活字にしたのは日系の店、商標にしたのは中華系の店」と書きました)。創業者伝の第6回は、その2軒 ── ホノルルのキング街とリバー街の角の近くで商売をしていた 武蔵屋の宮本家 と チュン家 の話です。
官約移民の船 — 1885年
宮本長太郎は、1885年、日本政府とハワイ王国の取り決めで始まった「官約移民」の最初のひとりとしてハワイに渡りました(JICA 海外移住資料館などは、船を第1回の官約移民船「シティ・オブ・トーキョー」と記しています)。砂糖きび農園での契約労働を前提にした、最初期の集団移民です。東京の出身で、のちの店の名「武蔵屋」は故郷の武蔵国にちなみます(JICA 海外移住資料館)。
1890年代後半、政府庁舎から望むホノルルと港。武蔵屋が生まれたころの町並み(Davey Photo Co. / Frank Davey 撮影・1890年代後半/パブリックドメイン)
長太郎はやがてホノルルに出て、呉服と雑貨の店「武蔵屋」を開きます。創業の年は、地元紙が1896年、JICA海外移住資料館の解説が1904年と、資料によって割れています。店はやがて、川沿いのキング街とリバー街の角の近く、魚市場のそばに落ち着きました ── 移民の店が軒を連ねる一角です。
6歳で日本へ — 2代目・孝一郎
息子の孝一郎は1895年ごろの生まれ。6歳のとき、日本へ送られます。そして1915年に長太郎が亡くなると、日本から呼び戻されて店を継ぎました(帰国の年は1915年とする資料と1920年とする資料があります)。資料は、英語も商売の経験も心もとないままの代替わりだったと伝えています。6歳で言葉の違う国へ送られ、20歳そこそこで言葉の違う島へ呼び戻される ── 2代目の商売は、そこから始まりました。
なぜ5年分の生地が、一度に届いたのか?
転機は第一次大戦でした。武蔵屋はシャツ地のブロードクロス(平織りの綿布)を英国に注文していましたが、大戦で船便が乱れて届かない。届かないので、追加の注文を重ねる ── そして戦争が終わると、重ね掛けした5年分の注文が、一度に届きました。店に入りきらず、波止場にも生地の梱が積み上がった、と武蔵屋の記録は伝えています(地元紙はのちに「1920年に頼みすぎた布だった」と書いています)。当時の記録は、この日を「彼の人生でいちばん悲しい日」と伝えています。
「5年分の生地が届いた日」の想像図。ホノルルの波止場に積み上がった生地の梱(AI生成イメージ・銅版画調。実景の写真は残っていない)
座り込んでいても生地は減りません。孝一郎は腕のいい縫い子を集め、山になった生地をシャツに仕立てて売ることにしました。呉服と雑貨の武蔵屋が「シャツの武蔵屋」になったのは、売るあてのない在庫の山がきっかけでした。
広告マンの「片言」広告 — 1921年
この店の名をホノルル中に、やがて太平洋の向こうまで知らせたのは、孝一郎本人ではなく広告の書き手でした。1921年、広告代理店チャールズ・R・フレイジャー社のジョージ・メレンが、孝一郎の話す英語を元にした新聞広告のシリーズ「Musa-Shiya the Shirtmaker(シャツ屋のムサシヤ)」を始めます。たとえば店への道案内はこうです。
If Musashiya shop too much hard finding, look at King Street until pass away in front famous Fish Market.(武蔵屋が見つけにくければ、有名な魚市場の前を通り過ぎるまでキング街を見ていてください、の意)
肌着の広告はこうでした。
Owing to slightly perspiring climate of Honolulu and adjacently adjoining territory all these persons abiding therein require more than usual undershirt.(ホノルルとその近隣の、少し汗ばむ気候のため、ここに住まうすべての人には、ふだんより多めの肌着が要ります、の意)
わざと文法を外した英語に、着物に下駄の店主の似顔絵。広告は大当たりし、1922年には本土の業界誌『ドライ・グッズ・エコノミスト』が紙面で紹介、メレンが顛末をまとめた小さな冊子『武蔵屋はこうして活字になった』は、スタンフォード大学の広告の授業で教材に使われました(2021年のホノルルの地元紙ほか)。
ただし、この広告を書いたのは店の外の広告マンで、売り物にされたのは日系移民の「片言」でした。1996年のホノルルの地元紙は、この似顔絵を、いまならまったく通らないものだと書いています。店主の側の受け止めとして残っているのは、冊子に書かれた、効き目を聞かれたときの答えだけです ──「いいえ。でも商売はとても順調で、みんな、いい広告だと言ってくれます」。これも片言の英語のまま活字になった言葉で、どこまで本人の肉声かは分かりません。
95セントのシャツと、ユタ大学の「名誉の殿堂」
1928年、ホノルルの高校を出てユタ大学に進んだラルフ・クロワードという学生が、武蔵屋の着物地のシャツを半ダース、本土へ持っていきました。1枚95セント。ジャズバンドの演奏で着ると、これが目立ちました。1930年のユタ大学の年鑑は、クロワードを学生の「名誉の殿堂」にこう書いて載せています ──「この大学で見た中でいちばんひどいシャツをいつも着て、本人は最高にイカしていると思っていたから」。
「アロハシャツ」という名前がつく前から、ハワイの柄シャツは本土の若者の目を引く服だったわけです。ちなみにこの学生はのちにハワイへ戻り、ハワイ初の脳神経外科医になりました。
同じ角の、もう1軒 — エラリー・チュン
武蔵屋と同じキング街とリバー街の角の近くには、チュン・カムチャウの乾物店「C.K.チョウ・ドライ・グッズ」 がありました。1909年、その7人きょうだいの3番目として生まれたのが エラリー・チュン です。名門プナホウ校から イェール大学に進み、1931年に経済学部を卒業。帰郷は大恐慌のさなか。妻ミルドレッドはのちに「店の商売のために、新しい案が必要だった」と語っています。店を継いだチュンは、屋号を 「キング・スミス・クロージアーズ」 に改めました。死亡記事によれば名の由来は店の最寄りの交差点(キング街とスミス街)で、この改名とともに、中国系向けだった乾物店は幅広い客の集まる店に変わっていきます。
そして、よく知られた一着が生まれます。チュン自身が1987年のインタビューで語った言葉が残っています。
ハワイの柄をプリントした布はまだなかったので、柄のある日本の浴衣地で、半袖で裾がまっすぐなシャツを数ダース仕立ててもらいました。店のショーウィンドウに「アロハシャツ」の札と一緒に並べたんです。最初は珍しがられるだけでしたが、大きな可能性があるのは見えていました。(エラリー・チュン、1987年)
発想の元について死亡記事が挙げるのは、農園の作業着だった格子柄のシャツ「パラカ」と、高校の同級生が着ていた絹のシャツ ── 日系の家政婦が着物の余り布で縫ったもの でした。最初のアロハを作った年は、1931年とする資料と1933年とする資料があります。
チュンの妹 エセル は、ハワイ大学からロサンゼルスの美術学校へ奨学生として進んだ画家でした。1936年に客船で本土へ渡ったときの乗船名簿が残っています ── ハワイ生まれの米国市民である彼女の欄には、身分証明書の番号が書き込まれ、翌1937年の名簿には「排華法」(中国人排斥法)の事件番号も加わります。画家の妹が海を渡るにも、紙が要る時代でした。エセルの図案は、のちにスミソニアンに寄贈されています。
1935年6月28日 — 「アロハシャツ」が活字になる
知られている限りでもっとも早い例とされるのが、1935年6月28日のホノルル・アドバタイザー紙に載った武蔵屋の広告 です。
"Aloha" Shirts ── よく仕立てられ、美しい柄と、鮮やかな色。既製も、あつらえも ── 95セントから
ただし、この広告を出した「武蔵屋商店(Musa-Shiya Shoten, Ltd.)」が誰の店だったのかは、簡単には言えません。地元紙によれば、孝一郎は1933年に川沿いの呉服店をフジイ夫妻に売り、別の場所でシャツ作りの店を開いています。1935年の広告主が孝一郎のシャツ屋なのか、屋号ごと店を引き継いだフジイ家なのか、決められる資料は見つかっていません。確かに言えるのは「武蔵屋の名で出た広告」というところまでです。
チュン自身は晩年、自分の店のシャツの始まりをこう振り返っています ──
ハワイの柄のプリント地はまだ無かったから、柄の入った日本の浴衣地で、半袖で裾のまっすぐなシャツを数ダース仕立てさせた。「アロハシャツ」と書いた札を付けて、店の正面のウィンドウに並べた。最初は物珍しさで売れる程度だったが、大きな可能性があるのは見えていた。(Since there was no pre-printed Hawaiian fabric around, I took patterned Japanese yukata cloth and had a few dozen short-sleeve, square-bottomed shirts made up for me. I put the shirts in the front window of the store with a sign that said 'Aloha Shirts.' They were a novelty item at first, but I could see that they had great potential.)── 1987年、ホノルル・スター・ブレティン紙のインタビュー(ブログ Images of Old Hawaiʻi が引用)
翌1936年ごろ、チュンの店は「アロハ」の名を商標として登録します(登録名を「Aloha Shirt」とする資料と「Aloha Sportswear」とする資料、年を1936年とするものと1937年とするものがあり、細部は割れています)。名前を刷ったのは武蔵屋、権利にしたのはチュン ── ハワイ準州の記事では一行で済ませたこの話には、2軒の店それぞれの事情がありました。
なぜ一人は顕彰され、一人は忘れられたのか?
その後の2人の歩みは対照的です。
チュンは1950年までにキング・スミスを手放し、1945年からはアメリカン・セキュリティ銀行の取締役、のちに専任の役員(バイスプレジデント) ── 後半生は服の人ではなく、銀行家でした。1991年、ハワイ州上院は「アロハシャツを生んだ人」としてチュンを顕彰。2000年5月16日、91歳で亡くなりました。同じ2000年、州知事は業界団体の求めで、この年を「アロハシャツの年」と宣言しています。
孝一郎は1968年に引退し、1986年に90歳で亡くなりました。地元紙はその死を「ほとんど知られないまま」だったと書いています。知られている限り、顕彰は受けていません。
もっとも、「生んだ人」という言葉には注釈が要ります。チュンの死から2か月後、ホノルル・アドバタイザー紙は、チュン発明説は繰り返されるうちに固まっていった話だ、という趣旨の検証記事を載せました。1965年のハワイ大学の産業調査も、チュンの功績を「発明」ではなく、注文で仕立てていたシャツを店にいつも並べ、その場で買えるようにしたこと に置いています。名前を刷った店と、商品にした店。どちらが欠けても、いまのアロハシャツはありません。
いま、私たちが手に取る一着の意味
古いアロハシャツの柄に浴衣の面影を探すとき、その源流には、売るあてなく波止場に積み上がった5年分の生地と、浴衣地で数ダース仕立てられたショーウィンドウのシャツがあります。官約移民の船で渡った初代、6歳で日本へ送られた2代目、米国市民なのに身分証明書が要った画家の妹 ── アロハシャツの明るい柄の背後にあるのは、移民の島の2つの家族の、海を行ったり来たりした一生です。
次回の創業者伝も、リクエストがあればコメント欄へどうぞ。
参考文献
- Harold Morse「Ellery Chun, creator of aloha shirt, dies at 91」Honolulu Star-Bulletin 2000-06-06
- Robert C. Schmitt「Some Firsts in Island Business and Government」The Hawaiian Journal of History vol.14(1980)
- June Watanabe「Isle dry goods store sews patchwork of success」Honolulu Star-Bulletin 1996-05-28
- Bob Sigall「Rearview Mirror: Musashiya, the shirt maker, advertised in pidgin 100 years ago」Honolulu Star-Advertiser 2021-10-22
- Peter T. Young「Musa-Shiya The Shirtmaker」(2018)/「Ellery Chun's Gift to Hawaiʻi」(2023)Images of Old Hawaiʻi
- JICA 海外移住資料館「アロハシャツと日本人移民の歴史」海外移住資料館だより 第1号(2005)
- 「Ethel Chun, Artist」Chinese American Eyes(2020)
- Musa-Shiya Shoten, Ltd. 広告「'Aloha' Shirts」Honolulu Advertiser 1935-06-28 p.17 ほか(Schmitt 1980・Furer 1983 による)
- George Mellen『How Musa-shiya the Shirtmaker Broke Into Print』(1922・古書目録の記載による)
- Will Hoover「Aloha Shirts Unplugged」Honolulu Advertiser 2000-07-11(原文未見・二次資料による)
この記事は、まだ途中です
店主がいま確認できる範囲で書いています。実物を手に取るたびに「あれ、話が違うぞ」と気づくことがあって、そのたび書き直しています。間違いは、まだ残っているはずです。
下のコメント欄には写真も貼れます。訂正でも、質問でも、雑談でも。
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