
左:リーバイ・ストラウス。1916年にサンフランシスコで刊行された『Western Jewry』の追悼記事に載った肖像(1916年公刊/パブリックドメイン)。右:ヤコブ・デイヴィスが出願し、1873年5月20日に成立した米国特許139,121号の図面。右下に本人の署名が入る(NARA所蔵/パブリックドメイン)
創業者伝 第1回:リーバイ・ストラウスとヤコブ・デイヴィス — 一通の手紙で交差した二人の移民
ジーンズを発明したのは誰か。答えはひとりではありません。バイエルンから来た生地商人と、リガから来た仕立て屋。別々の人生を歩いていた二人の移民が、1872年の一通の手紙で交差する ── 新シリーズ「創業者伝」は、ブランドではなく人の一生を追います。
新しいシリーズを始めます。創業者伝 ── ブランドの歴史ではなく、創業者という一人の人間の一生 を追う連載です。
第1回は、どうしてもこの二人から。ジーンズの誕生は一人の発明譚として語られがちですが、実際には 二人の移民の人生が、一通の手紙で交差した物語 です。
少年、バイエルンを出る — リーバイ・ストラウス
リーバイ・ストラウス(生名レープ・シュトラウス)は 1829年、バイエルンの小さな町ブッテンハイム に生まれました。ユダヤ人の暮らしに法的な制限が多い土地で、父は結核で亡くなり、1848年、10代の終わりのリーバイは母と姉妹とともにニューヨークへ渡ります(渡米の年は1847年ごろとする資料もあります)。頼ったのは、先に移民してニューヨークで生地の商いを始めていた異母兄たちでした。
リーバイ・ストラウス(1829-1902)。1916年にサンフランシスコで刊行された『Western Jewry』の追悼記事に載った肖像(1916年公刊/パブリックドメイン)
転機はゴールドラッシュです。一族は西海岸に支店を出すことを決め、1853年、リーバイはパナマ地峡経由でサンフランシスコに上陸。金を掘る側ではなく、掘る人々に物を売る側 ── 生地や日用品の卸商を開きます(屋号が Levi Strauss & Co. になるのは1863年です)(この時代の空気は Vintage History 第1回 で書きました)。
ここで大事なのは、この時点のリーバイは 「ズボン屋」ですらなかった ことです。彼は布を売る問屋でした。ジーンズの話は、まだ始まりません。
仕立て屋、リノにたどり着く — ヤコブ・デイヴィス
もう一人の主役 ヤコブ・デイヴィス(生名ヤコブ・ユーフェス)は 1831年、ラトビアのリガ に生まれた仕立て屋です。1854年にニューヨークへ移民 し、以来16年 ── 仕立て屋、鉱夫、ビール醸造、煙草屋と商売を替えては行き詰まり、メイン、カリフォルニア、カナダを転々としたのち、1868年頃、ネバダ州リノに腰を落ち着けます。
1870年ごろ、ネバダ州リノの仕立て場のイメージ。馬布・テント用の厚手の生地と銅リベットが、デイヴィスの毎日の商売道具だった(銅版画調・AI生成イメージ)
リノでの仕事は、洋服の仕立てというより 馬布・テント・幌馬車のカバー作り でした。つまり彼は毎日、重くて破れない布と、それを留める金具 を扱っていた。この職歴が、すべての伏線になります。
伝えられるところでは 1870年の暮れ、ある木こりの妻が「夫のズボンがすぐ破れる。丈夫なのを作ってほしい」と、代金の3ドルと夫の採寸を持って店に来ます。デイヴィスは、いつも馬布に使っていた 銅リベットを、ズボンのポケットの角に打ち込む ことを思いつきました。破れるのは縫い目に力がかかる点。そこを金属で留めてしまえばいい ── 布とテントの職人らしい、身も蓋もなく合理的な発想です。手持ちでいちばん丈夫な10オンスのダック地を裁ち、リベットを打ち、斧を担いで山へ入っていく木こりを店先から見送った ── 本人は後年の特許裁判でこう証言しています。「大したことだとは思っていなかった。あのズボンを売って、しばらくは忘れていた」
ところが翌月、リベット付きのズボンを求めて4人の男が小屋を訪ねてきます。1871年2月には10本、3月には測量隊がまとめて1ダース。18ヶ月で200本(白いダック地か、青いデニム)── 評判は、穿いた男たちの脚で歩いて広がりました。模倣される前に特許を取りたい。しかし デイヴィスには特許出願の費用(約68ドル)が重かった。すでに特許を2件持ちながら暮らしは貧しいままで、妻のアニーには「これ以上、山師みたいな思いつきにお金を使わないで」と釘を刺されていたといいます。
そこで彼は、いつも生地を ツケで 買わせてくれている寛容な問屋に手紙を書きます。
1872年 — 一通の手紙
宛先はサンフランシスコの生地問屋、リーバイ・ストラウス。デイヴィスに生地をツケで売っていた、あの寛容な問屋のことです。1872年7月2日、まだ英語よりドイツ語が達者だったデイヴィスが町の薬屋に口述筆記させた手紙は、評伝『They Made America』(ハロルド・エヴァンズ、2004)にそのまま引かれています。綴りの揺れた素朴な英語で、要点はこうでした。
あのパンツの秘密は、ポケットに打ったリベットです。需要が大きすぎて、作るのが追いつきません。特許で押さえなければ、じきに誰もが作り始め、金にならなくなる。出願の費用はおよそ68ドル ── あなたが全額を持ってくれるなら、権利の半分を差し上げます。
「費用を出してくれるなら、特許を共同で持ちませんか」 という提案です。
リーバイは乗りました。ただし、特許はすんなり下りていません。特許庁は「南北戦争で兵士のブーツにリベットを打った前例に似ている」として一度出願を却下し、文言の修正を3度重ねて、10ヶ月後 ── 1873年5月20日、米国特許139,121号(衣類のポケット留め具の改良)が二人の名前で成立します。この日が、いま「ジーンズの誕生日」と呼ばれる日です(リベット特許の図解 は第1回に載せています)。
米国特許139,121号の図面原本。「J. W. DAVIS. Fastening Pocket-Openings. Patented May 20, 1873.」── リベット付きのズボンを穿いた人物画に、発明者デイヴィスの署名が入る(米国国立公文書館 NARA 所蔵/DPLA経由/パブリックドメイン)
リーバイ・ストラウスとヤコブ・デイヴィスの生涯が交差する年表。二本の線が1872年の手紙で合流し、1873年の特許で一本になる(Kei's Vintage 独自作成)
役割分担は明快でした。資本と販路のリーバイ、現場と技術のデイヴィス。特許の成立のひと月ほど前、デイヴィスはリノの店を畳み、妻アニーと6人の子どもとともにサンフランシスコへ移ります。以後は給料制の裁断主任として生産を監督しました ── 発明家が現場の職人に戻った、とも言える選択です。特許の持ち分は手放さずに持ち続け、会社に譲ったのは 1907年ごろ だったと、リーバイス社の資料は伝えています。
1873年はアメリカが大不況に入った年でしたが、リベット付きの「ウェスト・オーバーオール」は6月の発売から走り出し、年末までに4万3千ドルあまりを稼ぎ、2万人が穿いていた と評伝は伝えます。縫い目の オレンジのステッチ は、デイヴィスがリベットの銅色に合わせて入れたものと伝わります ── いまも501の腰で光っている、あの糸の色です。
需要に追いつくため、リーバイはフリーモント街に自社工場を構えました。60人のお針子が、それぞれ15枚のパーツから1本を丸ごと縫い上げる。腕のいい人は日に5本、日給は3ドル ── れんが職人並みの賃金です。一方で1880年代の同社の広告には 「白人労働のみで製造」 と謳った時期があります。不況下で反中国人感情が高まった時代の営業方針で、後年取りやめられました。ブランドの歴史には、こうした影も含まれます。
ジーンズは「発明家が閃いた」のではなく、布屋の資本と仕立て屋の現場知が、手紙一通で合流した 商品です。どちらが欠けても成立しなかった ── ここが、この話のいちばん美しいところだと思います。
その後の二人
リーバイは生涯独身のまま、1902年9月26日に亡くなります。約600万ドルの遺産の大半は甥たちへ ── いまの Levi Strauss & Co. がファミリー企業として続く理由です。66歳のとき、生涯で唯一知られるインタビュー(San Francisco Bulletin・1895年)でこう語っています ── 「私の幸福は、日々の決まった仕事のなかにある。大きな財産は持ち主を幸福にしない。持った途端、人はその財産の奴隷になるのだから」。晩年の彼は事業よりも慈善で知られ、カリフォルニア大学に28の永久奨学金を設けるなど、孤児院や福祉団体への寄付に熱心でした。自分が、10代で海を渡ってすぐに兄たちの店で働き始めた移民だったことと、無関係ではないでしょう。
デイヴィスは1908年に亡くなるまで、工場の監督であり続けました。表舞台にはほとんど出ず、いまも知名度はリーバイに遠く及びません。けれどジーンズのリベットをひとつ撫でるとき、そこにあるのは リノの仕立て屋が馬布から持ち込んだアイデア です。
いま、私たちが手に取る一着の意味
501の年代をリベットやステッチで判定するとき、私たちはこの二人の分業の痕跡を読んでいます。リベットはデイヴィスの人生の要約で、赤タブやブランドの継続はストラウス家の商才の要約 ── 一本のジーンズは、二人の移民の履歴書 なのです。
ちなみに「501」のロット番号が初めて使われたのは、会社を法人化した 1890年。奇しくも特許が切れて、他社が自由に模倣できるようになった年です。そしてリーバイ本人は、生涯 「ジーンズ」という言葉を使ったことがありません。会社がその呼び名を受け入れるのは、彼の死から60年ほど経った1960年代のことです。
英国で服に名前を残したのは、カーディガン伯爵、ウェリントン公爵、ラグラン男爵 ── みな貴族でした。アメリカでそれをやったのは、日用着を商う移民の行商人だった。評伝の著者ハロルド・エヴァンズは、この対比を書き留めています。
次回の創業者伝は、石油を売った男が62歳で作業着を縫い始める話 ── H.D.リー です。
参考文献
- Harold Evans, They Made America(Little, Brown, 2004)のリーバイ・ストラウスの章
- Jacob Davis: His Life and Contributions(Levi Strauss & Co. 公式資料)
- Levi Strauss: A Biography(Lynn Downey・Levi Strauss & Co. 公式伝記、2014)
- NPR: A pair of Levi's that sold for $76K reflects anti-Chinese sentiment of 19th century(2022)
この記事は、まだ途中です
店主がいま確認できる範囲で書いています。実物を手に取るたびに「あれ、話が違うぞ」と気づくことがあって、そのたび書き直しています。間違いは、まだ残っているはずです。
下のコメント欄には写真も貼れます。訂正でも、質問でも、雑談でも。
Tags
More Reading
次に読む

創業者伝 第9回:ハイネマン家とエロッサー家 — 15歳の店員の名が、社名の先頭に来るまで
「CAN'T BUST 'EM(破れっこない)」のニワトリ印で知られるサンフランシスコの作業着の会社は、1851年から1946年まで、95年間ずっと同族の手にありました。メルボルンから165日の船旅で来た弟、15歳で入社して70年働いた店員、その店員の名前が社名の先頭に来た理由 ── 二つの家族がひとつの会社を守った物語です。

創業者伝 第7回:C.C.ハドソン — 日給25セントのボタン付けから、ブルーベルを興した男
ラングラーの前身ブルーベルを興したC.C.ハドソンの最初の仕事は、オーバーオールのボタン付け、日給25セントでした。勤め先の工場が閉じたときのミシンの買い取りから始まった創業、「死ぬまで借りたままにしておきたい」と書いた37ドル58セントの借金、病気による売却 ── そして1947年のラングラー誕生を見ないまま亡くなった、一人の創業者の一生です。

創業者伝 第6回:エラリー・チュンと武蔵屋の宮本家 — 「アロハシャツ」の名を刷った店と、権利にした店
「アロハシャツ」という名前を最初に新聞に刷ったのは、ホノルルの川沿いにあった日系の店・武蔵屋でした。その名を商標にしたのは、同じ角の近くで育った中国系の青年エラリー・チュン。官約移民の船で渡った初代、5年分の生地の山からシャツ屋になった2代目、そして1986年に「ほとんど知られないまま」亡くなった人と、州に顕彰された人 ── 2軒の店の一生を追います。

Comments
コメント・写真投稿
あなたの一着の写真や、感想・別解釈・素朴な質問を歓迎します。投稿は店主が確認のうえ公開します(すぐには表示されません)。
読み込み中...