
1919年の Lee Union-Alls 新聞広告より。斧を担いだ木こりと「リーでなければ、ユニオンオールではない」の惹句(The H.D. Lee Mercantile Co.・1919年公刊/Wikimedia Commons経由/パブリックドメイン)
創業者伝 第2回:H.D.リー — 石油を売った男が、62歳で作業着を縫い始めるまで
Leeの創業者H.D.リーが自分の工場で作業着を作り始めたのは62歳のときでした。ホテルの夜勤係、石油会社の再建、結核による転地、二度目の起業 ── 「カウボーイのLee」が生まれるずっと前の、一人の商人の長い人生を追います。
Lee というブランドの 服の系譜 ── Riders 101 と 101Z は別の記事に譲って、今回はその 手前 の話です。カウボーイも、ライダースも、まだ影も形もない頃 ── H.D.リーという商人の、長い長い助走 を追います。
夜勤係の少年 — バーモントからオハイオへ
H.D.リー(ヘンリー・デイヴィッド。資料によってはハリーとも)は 1849年12月9日、バーモント州 に生まれました(生まれた年は1849年が有力ですが、1853年、1857年とする資料もあります)。幼いうちに父を亡くし、少年時代は里子に出されて育ちます ── 本人は後年、11歳のとき1ドル50セントを手に預け先を出た、と語っています。10代半ばでオハイオ州ゲイリオンへ 移り(着いた年齢は資料により12〜16歳と割れます)、ホテルの夜勤係として働き始めます。夜勤のかたわら、客の靴を磨き、馬車の手配を代行して、給料の外に小銭を稼ぎ足していた ── 地元ゲイリオンの研究に残る、夜勤係時代の姿です。頼まれる前に稼ぎ口を見つけて動く。この商いの反射神経は、この先の人生で何度も顔を出します。
3年の夜勤で貯めた金は 1,200ドルほど だったと伝わります(いまの感覚で数百万円)。これを元手にゲイリオンの不動産や貸馬車業へ投資し、当時アメリカの家庭で流行していた 円環編機(靴下などを編む小さな家庭用機械) の販売でも稼ぎます。そうして太らせた元手で、最初の大勝負に出ます。1879年2月、29歳のとき、H.M.スミス商会の製油所を6,000ドルで買収 ── 金額は当時の地元紙が報じた実額です。夜勤係の給料でいきなり買ったわけではなく、10年かけて積み上げた元手と信用での買い物でした。石油はその後の本業になり、1887年には Central Ohio Oil Company の副社長 に就いています。この石油事業はのちにスタンダード石油へ売られたと伝わり ── 地元ゲイリオンの研究には、リーが晩年のロックフェラー本人と親交を結んだと伝えるものもあります。相手は当時のアメリカで最も強大な独占企業 ── そこに「売る側」として座った時点で、リーの一度目の人生は成功のうちに終わってもおかしくありませんでした。
1880年代の終わり — 家族を、続けざまに失う
商いが軌道に乗る一方で、家のほうは暗転が続きます。1869年にゲイリオンで結婚した妻エマ との仲は、1879年に義父の遺産をリーが管理するようになった頃からこじれていった、と離婚訴状は語ります。1887年2月には、兄弟のフランシスがニューヨークのホテルで自ら命を絶ちました。地元紙は「9か月のあいだに母と姉妹と兄弟を失った」と書いています。そして 1889年1月、リーを原告とする離婚が成立。二人に子はいませんでした。
39歳。家族を失い続けた男の手元に残っていたのは、商いだけでした。
1889年 — 「西へ行きなさい」
体も、早くから信号を出していました。1878年に重い病で床につき、1888年の秋にはニューヨークで長い治療 を受けた記録が残ります(病名は、のちの資料がそろって 結核 と伝えます)。医師の勧めは転地療養でした ── 乾いた土地、西へ。
リーが選んだのは カンザス州サライナ です。そして彼は療養者としてではなく、起業家として 町に着きました。開いたのは食料品の卸、H.D. Lee Mercantile Company。鉄道で穀倉地帯の真ん中に物を流す商売は当たり、カンザスシティとデンバーのあいだの食品流通で大きな地位を築いていきます。手がけたのは食品だけではありません。金物の Lee Hardware、製氷倉庫の Kansas Ice and Storage、製粉の Lee-Warren Flour Mill、さらに Farmers National Bank ── サライナという町の商いの骨格そのものを、次々に組み上げていきました。
病気で人生を中断された40歳が、療養先でそのまま二度目の帝国を築き始める。H.D.リーの伝記でいちばん驚くのは、オーバーオールではなくこの回復力です。
回復力は、このあとも試されます。1903年12月、大火で社屋と在庫あわせて57万ドル超を焼失。リーは得意先に「友よ、H.D.リー商会は災難に見舞われた」と呼びかけて未払い代金の支払いを頼み、約50万ドルが集まった と伝わります。火事を、積み上げた信用で立て直したわけです。
1911年 — 62歳の新規参入
卸商リーには、長年の悩みがありました。東部から仕入れる作業着が、なかなか届かない。カタログの目玉なのに、肝心の納品が来ない。
62歳のリーの結論は単純でした。「来ないなら、自分で縫う」。
- 1911年 オーバーオールや作業用の上着 の製造を開始(厚手の生地を誇る文化は 8オンスを誇る文化 の記事に書きました)
- 1911〜12年 サライナに自社の縫製工場を開設
- 1913年 上下つなぎの ユニオンオール を発表。きっかけは、サライナの販売店へ自動車を納めに来た ひとりの整備士の注文 だったと伝わります ── 「下着のユニオンスーツみたいに、上着とズボンを縫い合わせてくれないか」。翌1914年、「Union-Alls」を商標登録します
- 第一次大戦期 ユニオンオールは米政府の軍需に採用されます。勢いに乗った1917年ごろ、本社機能をサライナからカンザスシティへ移したとされます(1916年とする資料もあります)
H.D.リーの生涯年表。1849年バーモント生まれから、オハイオでの石油業、1889年の転地、1911年の作業着参入、1928年の死去まで(Kei's Vintage 独自作成)
つまり Lee の作業着は、デザイナーの野心からではなく、卸売業者の在庫管理の苛立ちから 生まれています。品質への執着も、元をたどれば「仕入れで裏切られた男」の反動と読むと腑に落ちます。
1919年の Lee Union-Alls 新聞広告の全面。「アメリカでいちばん人気の作業着」を名乗り、本社の筆頭は移転後のカンザスシティ。隅には「パパとおそろい(Just Like Dad's)」の子ども用マスコット(The H.D. Lee Mercantile Co.・1919年公刊/Wikimedia Commons経由/パブリックドメイン)
1928年 — 「カウボーイのLee」の手前で
晩年のリーが新聞の人物欄に残した言葉があります ──「趣味など、持たないようにしてきた。私の一生は、仕事に捧げてきた」(カンザスシティ・スター 1922年)。その言葉のとおり会社は育ち、1922年には従業員が2,000人を数えたと資料は伝えます。
リーは 1928年3月15日、滞在先のテキサス・サンアントニオの病院で心臓発作により亡くなります。78歳。棺はサライナへ帰り、葬儀のあいだ、町中の店が扉を閉めた と当時の新聞は伝えます。ジプサム・ヒル墓地に眠っています。子のいなかったリーの会社を継いだのは、倉庫係(ストックボーイ)から叩き上げた、リーの姪の夫にあたるレナード・C・ステープルズ です。リーが見たのは自社が中西部の作業着の雄になるところまで。カウボーイパンツ(後の101)が西部の象徴になり、ライダースやストームライダー が生まれ、『理由なき反抗』のスクリーン に映るのは、すべて彼の死後 の物語です。
創業者の人生とブランドの黄金期がすれ違う ── 実はワークウェアの世界では珍しくありません。種を蒔いた人は、収穫を見ないまま去ることが多いのです。
いま、私たちが手に取る一着の意味
古いLeeのビブやカバーオールのタグに「THE H.D. LEE MERCANTILE CO.」の文字を見つけたら、それは 「服のブランド」になる前の、卸商時代の名残 です。夜勤係、石油、結核、卸売、そして62歳の新規事業 ── 一枚のビブの向こうに、それだけの人生が畳まれています。
1960/70s Lee 91-J カバーオール(当店で撮影した個体)。リーが62歳で始めた作業着づくりの、およそ半世紀後の姿
写真は 1960/70s の Lee 91-J カバーオール。胸ポケットの小さなタグが、卸商の名前から「服のブランド」へ変わったあとの Lee です。
次回の創業者伝は、ミシン2台と2分の1馬力のモーターから始まった男 ── ハミルトン・カーハート です。
参考文献
- Lee 公式: The History of Lee Jeans / The Union-All Legend
- History of Lee Apparel Company, Inc.(FundingUniverse 社史)
- The Galion Years of Henry D. Lee(オハイオ州ゲイリオンの地元研究・Medium 連載)
- Find a Grave: Henry David "H.D." Lee
- NRHP 登録資料: H.D. Lee Company Complex(カンザス州史跡局・2008・PDF)
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